はじめに
藤本タツキ先生のマンガ「ルックバック」(集英社)について感想と考察を書きました。
少し長いですがどうしても書きたくてそうなってしまいました。
部分的に押山清高監督の劇場アニメにも触れています。
是枝裕和監督による実写映画化も決まっているそうです。
この作品は読み手の数だけ解釈があっていいと思います。
当ページもあくまで解釈のひとつにすぎません。
記事の性質上ネタバレを含みます。
何かの表現を頑張っている人ほど胸を打たれる物語です。
ざっくりあらすじ
小学校の学年新聞の4コマ漫画を通じて出会った二人の少女、自信家の藤野と不登校の京本。二人はやがて一緒にマンガを描き始め、共にお互いの世界を切り拓いてゆく。成長する中で道を違えた二人にやがて訪れた残酷な別離。回想にもたらされた答えとは……?
CONTENTS
藤野と京本のキャラクター1(出会い編)
藤野は学内の4コマ連載で好評を博す人気者で、クラスではマンガの天才という風情のアイデンティティを持っています。才能を盛って語るところは見受けられますが、テンポよく物語を描いて完結させ、作品世界に引き込む才能の持ち主でした。
京本は学校には行っていないものの、藤野が嫉妬するほどの画力を持っています。引きこもっている部屋の中で重ねた大量のスケッチが彼女の才能を開花させたのでしょう。しかし、京本のマンガには起承転結や展開の妙が希薄でした。
すなわち、この二人がタッグを組むのは実に合理的でした。ネームを作って人物とシナリオを自在に操る藤野と、主に背景で作品を強固に飾る京本。お互いの才能を前面に出し、お互いの不得手を補い合うことで、彼女たちは「藤野キョウ」という新たなアイデンティティを手に入れたのです。
二人の出会いは、絵についてだけ言えば小学校四年生、実際に顔を合わせるのは小学校六年生の終わりでした。藤野は自信過剰気味、京本は自信喪失気味、とベクトルは真逆ですが、これらはいずれも思春期に見られる特徴でもあります。どこか不安定な心を抱えた二人は、共に机に向かう時間を重ねながら一人の漫画家としてのキャリアもまた積み重ね始めます。
藤野と京本のキャラクター2(別れ編)
17歳になった藤野と京本に編集部から連載の打診が舞い込み、あろうことかそれがきっかけで二人は別々の道を歩むことになりました。藤野は藤野キョウとして生きることを選び、京本は藤野キョウを降りて美術の大学で勉強することを選ぶのです。
出会った頃のことを思えば、京本の成長には目を見張るものがあります。人が怖くて学校に行けなかった少女が、連載話を蹴ってでも進学を望むのですから。彼女は藤野との読み切り掲載を通じて希望を持ち決断、表明し、やりたいことに向かって努力し始めました。過去の自分を克服しようとしていたように思います。
藤野にしてみれば、作中描写があるように自分が京本の手を引いてあげている感覚(そうであろうとする打算も含む)があったでしょうから、正にはしごを外された格好でした。自信家の顔で京本を引き留めようとしますが、ここの我の強さはかえって未熟さが目立ちました。加えて、小学校教師や編集部の大人たちに対し、それなりの言葉で渡り合ってきた藤野の「素」が垣間見えた瞬間でもあった気がします。
なお、藤野も藤野で京本へのライバル心から絵を描きに描いてきたので、自信家ぶりが目立った物語開始当初に比べれば実が伴ってきていたのは確かでしょう。藤野はあれでいて努力家でもあるのです。
一方で、強い言葉で京本の決断を否定しようとした藤野&それでも折れなかった京本の構図は、「絵描くの卒業した方がいいよ…?」と告げてきたクラスメイト&それでも折れなかった藤野の構図とちょっと似ています。藤野と京本は一見真逆のようでいて、絵へのひたむきな想いは同じ、ということになりましょう。
京本救済if
刃物を持った男の美術大学襲撃事件が発生し、電話で京本の死を知らされた藤野は、自作の「出てこないで!!」から始まる4コマ漫画を目にし、京本を部屋から出した自分が彼女の死を招いたのだとショックを受けます。そして、その後描かれた「あのとき京本が部屋から出てこなかった世界線」の物語。これは追想のようでいて空想に転じてゆく、藤野が京本に感情移入し思い描いたもう一つの可能性の物語でもありました。ここでは主に藤野の二つの感慨が宿っていたように思います。
一つ目は、京本はいずれにしても背景美術の世界に魅了され絵の上達を目指しただろうという推察です。京本はおそらくあの日あの時あの場所で自分と出会わなかったとしても、いずれは自らの意志であの部屋を出ただろう。藤野にとっては少々残酷な結果だったかもしれませんが、この想像世界の前半では抗えない筋道としてそれが描かれていました。「もっと絵…上手くなりたいもん…」に集約される京本の切実な想いを目の当たりにしましたので、推察というより確信に近かったかもしれません。
二つ目は、その上で京本と共に漫画を描いていく未来への渇望です。この想像世界の後半は、いずれにしろ事件に巻き込まれるだろう京本を藤野が鮮やかに救い、ドラマチックな出会いを果たしてすべてが上手くいくシナリオになっていました。正に格好よく作られた漫画のようでしたので、「漫画だったらこんなふうに描き変えられるのに」という藤野の気持ちが滲んでいるようでもありました。筋書きが見事な分、動かせない現実の重みがかえって際立っていて、手に入らなかった人生への渇望が絶望に直結する表現でした。
このときの藤野は、京本を救いたかったのと同時に自分自身が救われたかったのではないでしょうか。彼女はあくまで京本に背中を見せる側としてふるまっていましたが、二人の本質的な間柄は良きパートナー同士でありライバル同士であり、心を鼓舞し合える戦友同士(つまり同志)だったと感じます。京本を失うことは藤野にとって、自身の一部が欠け落ちるようなものだったことでしょう。もともと二人のものだった藤野キョウというペンネームが欠落をより強く物語っていると思います。
言葉と絵、それぞれの存在感
前項で「京本を部屋から出した自分が彼女の死を招いたのだとショックを受けます。」と書かせていただいた藤野の様子ですが、漫画においては具体的に以下のような言葉で紡がれていました。
「私のせいだ……」
「私があの時……」
「漫画描いたせいで……」
「京本死んだの あれ? 私のせいじゃん……」
「京本っ 部屋から出さなきゃ」
「死ぬ事なかったのにっ あれっ?」
「なんで…?」
「なんで描いたんだろ…」
「描いても何も役にたたないのに……」
この涙を溢れさせながらの自責部分、ストーリーの時間軸に沿って考えると、藤野が一人で連載をし始めて以降ラストシーンに至るまでの間に唯一声として発せられたセリフでした。コミックスのほとんど後ろ半分において、藤野は基本的にずっと黙っているのです。回想シーンと京本救済ストーリーを除けば、ここ以外に口に出して何かを言うことはありません。(ちなみに、劇場アニメでは電話で編集者にアシスタント環境の改善を求めるシーンが追加されており、藤野本人の声を通じて京本不在の影響が強調されていたことを補足します。)
後半よりは吹き出しや会話の多いストーリー前半も、特に藤野が絵と向き合う場面においては言葉が排除される傾向がありました。部屋や学校で机に向かって描く場面はもちろん、京本にネームを見せる約束をした後の道のりや、京本と賞金で遊びに出かける場面などといった間接的な関わりのシーンでも、字ではなく絵で物語が言い表されているのです。
無口にして雄弁。私はそのように感じました。
思えば藤野の初期の4コマ「ファーストキス」では、隕石や地球を作画のみで表せず文字で説明していました。隕石に至っては漢字も書けていませんでしたね。「引きこもり世界大会」の「←京本」等も然り。字は絵の未熟さを言い表すものでもあったということでしょう。
逆に、事件報道のテレビアナウンスでは一気にいくつもの吹き出しが割り込んできて、紙面に多くの文字が並んでいました。また、休載のお知らせは定型的な長文で、その内容同様それまで雄弁だった作中の絵での語りがいよいよミュートされたかのようでした。京本救済if内の事件再現シーンで差し込まれた黒文字×黒バックのコマも、絵で語れなくなった藤野の代わりに望まざる現実が不都合なネームを織り上げていくようにも見えました。
これらの文字は藤野の心の不均衡を言い表しているように思えます。藤野は絵に注いでいた意識をそらされ、真っすぐだった姿勢を変えざるを得なくなった時点で平常を崩されており、そこから当作品(自分自身の物語)の主導権をも失っていったかのようでした。
作者・藤本先生の本作における表現の基本がそういう絵主体の形式と捉えると、そんな中で声になっていた藤野の言葉というのがとてつもなく強い印象を落としてきます。絵が大切なモチーフと踏まえると、彼女がくだんの4コマ漫画を破り捨てる描写は実に凄まじい衝動だったことが窺えます。
しかし、喪失からの自責は藤野にとって着地点ではありませんでした。「なぜ描いたのか」という自問が「なぜ描くのか」という根源的なテーマにつながっていったと思われるためです。
背中を見て
京本の部屋の中から出現した4コマ漫画は、背中に刃物が刺さった藤野の姿をコミカルに描き出していました。これを現実に照らし合わせると、空想の中で京本を救ったところで実際の藤野もまた殺人犯にズタズタにされている、という解釈ができるようにもなっています。
背中といえば。
「じゃあ私ももっと絵ウマくなるね! 藤野ちゃんみたいに!」
「おー 京本も私の背中みて成長するんだなー」
こちらは本作で初めて明確に登場した回想シーンの会話からの抜粋です。美大通り魔殺人事件発生直後、藤野の記憶から差し込まれました。ルックバックはlook back=振り返る、背中を見るという意味ですので、ここでタイトルに対する答えの一部が出てきた形です。
思い返せば二人が初めて出会った日、藤野は京本にせがまれて服(はんてん? どてら?)の背中部分にサインを書いていました。このとき二人に何が起きたかというと、
・藤野→ファンを公言され初めて実際にサインを書く。遠ざかっていた漫画への情熱が再燃し猛然とネームを描き始める。
・京本→大好きな藤野先生を追って籠っていた部屋から外へ出る。服にサインをもらいネームを見せてもらえることになる。
なんとなく停滞していたそれぞれの時間がこじ開けられ加速していきました。
藤野には京本の画力に圧倒されて4コマを辞めた経緯がありましたから、このときの心境はやや複雑だったはずです。が、そんな京本が自分にとってこの上ない読者だったという事実と、そんな彼女からの「どうしてやめたのか?」という直接的な問いが藤野を突き動かしたように思います。要するに、自分がもっと上手くなれば辞める必要なんてないのだ、という端的な事実を読者・京本に突きつけられたわけです。
描くべし。描くべし。藤野の頭の中はそれで一気に塗りつぶされたのではないでしょうか。京本のように口に出したりはしませんでしたが、彼女とて上達したい気持ちは同じだったでしょうから。
つまり、背中は藤野にとって漫画を描き続ける覚悟の象徴なのです。表紙にもあるように、作画中のシーンは主に真っすぐな後ろ姿が描かれていましたが、この作業中の姿には原点の覚悟が投影されていたように思います。
救済ifの中の京本もまた、窓辺の机に向かう後ろ姿が藤野に重なります。ifパートは藤野の想像の世界ですから、京本も自身同様の心境だっただろう様子を迷いなく描き出しているところに描き手同士の絆を感じます。
以上のことを踏まえると、京本の4コマとして描かれた「背中を見て」を藤野が見るシーンは、
美大の事件で心がズタズタになっていた藤野が、回想や空想を通じて同じように成長しようとしていたはずの京本の想いにシンクロしつつ、「描き続ける」ことを決めた自分自身の想いを思い出した、
というふうに解釈できます。
また、藤野が京本の部屋に入って振り返ったところ、ちょうどドアの裏側に自らのサインした京本の服が掛かっているのも、室内を窺うのは京本への気持ち、背中のサインは自分の覚悟の象徴でもあり、「背中を見て」同様に京本を経由して自分自身へのフォーカスに着地しています。
この部分、二次元(漫画)と三次元(部屋)の二視点から重ねて描かれていることに藤野にとってのテーマの重要性を感じますし、三次元表現(部屋の中)より二次元表現(4コマ漫画)が先に登場しているところに、様々なものを犠牲にしていくつもの漫画を完成させてきた藤野の半生を重ねることもできると思います。
藤野が自分で選んだ道を進み続けるためには描くよりほかありません。休載の憂き目に遭った後にあって、その大切な気づきを背負った後ろ姿が4コマのオチとして示されること自体、藤野に答えを与える希望でもあり現実を突きつける絶望でもありうる。藤本先生は、こうした藤野の姿を通じて表現者の光と影を描き出したように思います。
描き手の目と読み手の目
ここで最初の回想の言葉を再び振り返ってみます。
「おー 京本も私の背中みて成長するんだなー」
京本も。藤野のこのセリフには、「私も京本の背中をみて成長している」という思いが隠れているのではないでしょうか。ここで言う京本の背中というのは、上手さを追いかけたい背中であり、覚悟を署名した背中でもあります。初手の回想でここに触れているのは、彼女の成長の糧が京本方面(外)と自己方面(内)の二軸から成り立っていることの表れと受け止めていいと思います。
紙面上直接説明されてはいないのですが、「絵が上手くなりたい」という願いの裏側には「漫画が好き」という純粋な気持ちがあると思われます。物語の最初の頃、藤野は本棚にジャンプ的な漫画雑誌などを並べていました。藤野とて、4コマ作画に手を出す前はただの一読者だったはずなのです。
漫画という文化は、描き手と読み手がいてこそ成り立ちます。藤野目線で見れば、描き手としての藤野キョウ(内)と自分以外の読み手(外)の二軸となります。不意の事故でいなくなってしまいましたが、京本は前者と後者を兼任していた訳です。
しかし、私は思うのです。京本はもう新たに絵を生み出すことはないけれど、藤野の中で永遠の読者として存在し続けるのではないかと。
藤野は京本救済ifの中で自分の中の京本を完全にトレースしていました。もしかしたら連載作・シャークキックのネームにおいても、「京本だったらどう受け止めるか」という視点を持って取り組んでいたのかもしれません。物語最終盤、京本の部屋の机に読者はがきがぽつんと置かれていたのは、読み手・京本の命が尽きていないことの表れだったように思います。
また、藤野も藤野で京本の絵を一番そばで見届けてきました。京本は作画中心の描き手でしたから読者、という言葉を用いるのは少し違うかもしれませんが、藤野は見る側の立場として描く側がいなくなる喪失感もまた京本を通じて味わうことになりました。
彼女はようやくそこへきて、自身の連載を見てくれている読者のことを考える気持ちが生まれたのかもしれません。奇しくも一読者に過ぎなかった小学生の頃の自分の感慨が交差し、漫画家になった今現在の自分自身を支える者の心境に思い至ったのです。これはやや二次的な解釈ではありますが、もし採用するなら気づきを与えたのが京本であったことに藤野にとっての意味を感じます。
そして彼女は立ち上がり、また机に向かうのです。一度は見失った内外二軸の概念の輪郭を再構築した、ということになりましょう。
なぜ描くのか1
ここまで敢えて触れてこなかったのですが、この物語は例の事件を境に現実と非現実の境界が曖昧になっていきます。実際の過去回想やたらればの空想などが押し寄せてきますので、読む側はそれらに翻弄されながら藤野の心を辿っていくことになります。
ここからはとりわけ個人的な解釈なのですが。
藤野は喪服らしい姿になって以降、作業場から一歩も外へ出ていない可能性があると思います。つまり、京本の家、その廊下、その部屋、物語後半で描かれたすべてが彼女の思想のイメージを投影したものにすぎないのではないか、という捉え方です。ドアの向こうにいる京本が4コマ漫画を描いて寄越す演出は特にファンタジックで、非現実感を強調しているように見えますし。
この説を推すとなると、「言葉と絵、それぞれの存在感」の項で述べた藤野の自責のセリフ群はあくまで心の中の慟哭で、実際には作業場でうなだれながら嗚咽しているのかも、すなわち物語後半は無言を貫いている=言葉ではなく絵で物を言う世界観が徹底されているのかも、などといった想像を広げることができます。
たとえば窓。作中、窓が映り込むシーンは多々ありましたが、そのほぼすべてが締め切られていました。プロになった藤野の職場などはめ殺しの大窓で、開ける余地すらないように見えます。それが、「背中を見て」の4コマが京本の手をすり抜けるシーンや、藤野が最後に見た京本の部屋の窓辺などでは開いていて風が吹き込んできており、明確に区別されていました。
締め切られた窓は、創作に向き合う苦しみの象徴と思われます。亡くなってしまった京本は現実のそういった苦悩からは解放された、という表現の一端ではないでしょうか。
なお、アニメの方では時々漫画でははっきり描かれなかった箇所でわずかな風が4コマ紙を揺らす演出が見られました。いずれも次の展開への気配を感じる場面でしたので、アニメサイドでは風を漫画創作のフィールド内にも持ち込んで解釈し、藤野の背中を押すような意味合いでも表現していたように思います。
たとえば窓に貼られた4コマ紙。描きたい意欲は生みの苦しみと常に隣りあわせ、の象徴と感じられます。この描写は京本の部屋にも藤野の作業場にも見られますが、いずれも藤野の心象風景として捉えるなら、見せてきた背中と追いかけた背中の両概念=それぞれの矜持を投影するアイテムだったように思います。
窓の外を過去と現在で比較してみると、かつては季節を感じる風情があったものの今は都会的で変化があまりありません。藤野が漫画を描くことにのめり込み始めた頃など、カレンダーの月や購入した参考書・描き溜めたスケッチブックの数等で時の経過が説明されていましたが、単独・藤野キョウになってからは時間の流れがほとんど刊行された漫画本の冊数だけで示されるようになり、客観的にはわかりにくくなっていました。時間が原稿によってのみ積み重なっていくようで、作業空間は広くなったのに窮屈さはむしろ増しているかのようです。
京本不在の痛恨を差し引いたとしても、連載を持ってからの藤野は漫画家として納得のいく手ごたえを感じにくいフェーズに入ったと思います。劇場アニメの方では作品掲載順位のグラフ演出がありましたが、総じて商業主義に追われる宿命や、そんな中で原点の衝動や熱意を見失わずに自身の表現をし続けることの難しさが感じ取れました。何事も伸びしろを一定以上消化すると上昇線が鈍ってくるものですし、物語序盤では目を引いた自信家の風情もすっかり見受けられなくなりました。
これらは「背中を見て」の項で触れた「表現者の光と影」の影の部分に当たる描写だと感じます。表現の創出には常にそういったものが付きまとうのでしょう。
なぜ描くのか2
「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」
最終盤の京本の声は藤野に問いかけます。発した本人は他意なくたずねただけだったかもしれませんし、京本の声を借りて表された藤野の自問だったかもしれませんが、これはクリエイターを自認する者の存在証明に直結するキラークエスチョンでもあります。投げ出すのは簡単でもそうはしない理由があるんでしょ? 作画の手が止まっていた藤野にはそんなふうに聞こえたのではないでしょうか。
冗談ともつかない風情で語られていた「読むだけにしといたほうがいいよね」「描くもんじゃないよ」あたりの一連のセリフは、京本に心を許していたからこそこぼれた藤野のちょっとした本心と思われます。返す刀で究極の質問が突きつけられていますから、最大級の前フリになってしまいましたね。漫画家・藤野の愚痴と本音を引き出せるのは藤野キョウを分け合った京本だけなのかもしれません。
小学校卒業当時の描写では明かされなかった藤野の下の名前が最後の最後で歩と明かされるのがまた、再出発への希望(光)のようでいて生まれながらに業を背負っている(影)ようでもあり、作者の意図を感じます。学生には卒業証書がありますが漫画家という職業には明確な卒業の証はありませんから、歩んだ分だけ続いていくことになりますよね。「絵描くの卒業した方がいいよ…?」というかつての同級生の言葉や、藤野が京本家を訪れた時の「卒業の証届けにきたのですがあ」などの言葉は、このベクトルでの伏線だったと受け取れます。
窓辺の藤野は、それらの混沌を抱えてでもこの表現で生きていくのか、というクリエイターたちの命題を宿していると思います。連載獲得後の彼女が言葉少ななのは漫画家の日常だからかもわかりませんが、このテーマを踏まえると藤本先生が自分の表現で立ち向かっているようにも見えてくるのが作品構造上深いです。
劇場アニメのエンドロールで声の出演者より他の制作陣のクレジットが先に置かれていたのは、絵を創り続けるという本作のテーマに照らした順列だったのではないでしょうか。
ちなみにアニメでは序盤にネタ帳の表紙が映り込み「フジノアユム」というフルネームが明かされていました。これは最後の「歩」に伴うカタルシスを保持しつつ、藤野が歩む姿に観客の目を向けさせたい意向ではないかと考えます。あれが小四なりの覚悟の署名だとしたら、漢字ではなかったことにまだ照れが見られますかね。
一つ大事なのは、最後に藤野が自らの作業場に貼り付けた4コマ紙は回想でも空想でもなく紛れもない現実だということです。アニメも含めてよく見てみたのですが、この4コマの内容ははっきり描かれていませんでした。察するに、藤野が自らの持ち物である空白の4コマ紙に様々な想いを投影して目の前の窓に貼りだしたのではないでしょうか。京本や漫画に対する気持ちをこれからも掲げていけるように。
休載以後の描写を改めて振り返ると、背中のサインを見つけるまでの絵を基調とした想いの流れすべてが、藤野にとって自身の心の整理を伴う京本との別れの儀そのものだったように感じられます。ですから、京本の遺影も藤野の心象風景だった=葬儀に参加したわけではない、というふうにも見えるのです。そんなときであっても絵を描くことが一番の報い。一見矛盾するようですが、これが漫画家・藤野が選んだ漫画家・京本に対する真摯なる答えという気がします。
サインを見つけた後藤野が田舎道を歩く後ろ姿は漫画家として心を立て直した何よりの思想イメージであり、机に向かう背中を思わせる覚悟がひしと感じられました。この後4コマ紙を貼るシーンへきれいにつながるのが、心の旅を終えて在るべき現実に帰還したことを示しているように思えます。
ここまで辿ると、この4コマに始まり4コマに終わる「ルックバック」という物語は、最終コマの藤野が心に携えている大事なものの骨格だったようにも見受けられます。人の骨格は散々描いてきた藤野ですが、彼女の漫画家としての矜持の骨格があぶり出された話でもあったと思います。京本救済ifの中で藤野が足を骨折していたのは、心根における手負いの自覚が顕在化したものと考えると筋が通ります。
また、いつか藤野が何かにつまずいて漫画を描く手が止まったときには、「ルックバック」で描かれたすべてを改めて振り返るのかもしれません。そのときは本作全体が未来の藤野にとっての大切な回想になることでしょう。立ち返るべき場所として、彼女の中に生き続ける背景なのですから。
|
|

