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藤本タツキ「ルックバック」感想と考察

 

はじめに

 

 藤本タツキ先生のマンガ「ルックバック」(集英社)について感想と考察を書きました。

 少し長いですがどうしても書きたくてそうなってしまいました。

 部分的に押山清高監督の劇場アニメにも触れています。

 是枝裕和監督による実写映画化も決まっているそうです。

 この作品は読み手の数だけ解釈があっていいと思います。

 当ページもあくまで解釈のひとつにすぎません。

 記事の性質上ネタバレを含みます。

 何かの表現を頑張っている人ほど胸を打たれる物語です。

 

 

 

ざっくりあらすじ

 

小学校の学年新聞の4コマ漫画を通じて出会った二人の少女、自信家の藤野と不登校の京本。二人はやがて一緒にマンガを描き始め、共にお互いの世界を切り拓いてゆく。成長する中で道を違えた二人にやがて訪れた残酷な別離。回想にもたらされた答えとは……?

 

 

 

 CONTENTS

 

 

藤野と京本のキャラクター1(出会い編)

 

 藤野は学内の4コマ連載で好評を博す人気者で、クラスではマンガの天才という風情のアイデンティティを持っています。才能を盛って語るところは見受けられますが、テンポよく物語を描いて完結させ、作品世界に引き込む才能の持ち主でした。

 京本は学校には行っていないものの、藤野が嫉妬するほどの画力を持っています。引きこもっている部屋の中で重ねた大量のスケッチが彼女の才能を開花させたのでしょう。しかし、京本のマンガには起承転結や展開の妙が希薄でした。

 

 すなわち、この二人がタッグを組むのは実に合理的でした。ネームを作って人物とシナリオを自在に操る藤野と、主に背景で作品を強固に飾る京本。お互いの才能を前面に出し、お互いの不得手を補い合うことで、彼女たちは「藤野キョウ」という新たなアイデンティティを手に入れたのです。

 二人の出会いは、絵についてだけ言えば小学校四年生、実際に顔を合わせるのは小学校六年生の終わりでした。藤野は自信過剰気味、京本は自信喪失気味、とベクトルは真逆ですが、これらはいずれも思春期に見られる特徴でもあります。どこか不安定な心を抱えた二人は、共に机に向かう時間を重ねながら一人の漫画家としてのキャリアもまた積み重ね始めます。

 

 

藤野と京本のキャラクター2(別れ編)

 

 17歳になった藤野と京本に編集部から連載の打診が舞い込み、あろうことかそれがきっかけで二人は別々の道を歩むことになりました。藤野は藤野キョウとして生きることを選び、京本は藤野キョウを降りて美術の大学で勉強することを選ぶのです。

 

 出会った頃のことを思えば、京本の成長には目を見張るものがあります。人が怖くて学校に行けなかった少女が、連載話を蹴ってでも進学を望むのですから。彼女は藤野との読み切り掲載を通じて希望を持ち決断、表明し、やりたいことに向かって努力し始めました。過去の自分を克服しようとしていたように思います。

 

 藤野にしてみれば、作中描写があるように自分が京本の手を引いてあげている感覚(そうであろうとする打算も含む)があったでしょうから、正にはしごを外された格好でした。自信家の顔で京本を引き留めようとしますが、ここの我の強さはかえって未熟さが目立ちました。加えて、小学校教師や編集部の大人たちに対し、それなりの言葉で渡り合ってきた藤野の「素」が垣間見えた瞬間でもあった気がします。

 なお、藤野も藤野で京本へのライバル心から絵を描きに描いてきたので、自信家ぶりが目立った物語開始当初に比べれば実が伴ってきていたのは確かでしょう。藤野はあれでいて努力家でもあるのです。

 

 一方で、強い言葉で京本の決断を否定しようとした藤野&それでも折れなかった京本の構図は、「絵描くの卒業した方がいいよ…?」と告げてきたクラスメイト&それでも折れなかった藤野の構図とちょっと似ています。藤野と京本は一見真逆のようでいて、絵へのひたむきな想いは同じ、ということになりましょう。

 

 

京本救済if

 

 刃物を持った男の美術大学襲撃事件が発生し、電話で京本の死を知らされた藤野は、自作の「出てこないで!!」から始まる4コマ漫画を目にし、京本を部屋から出した自分が彼女の死を招いたのだとショックを受けます。そして、その後描かれた「あのとき京本が部屋から出てこなかった世界線」の物語。これは追想のようでいて空想に転じてゆく、藤野が京本に感情移入し思い描いたもう一つの可能性の物語でもありました。ここでは主に藤野の二つの感慨が宿っていたように思います。

 

 一つ目は、京本はいずれにしても背景美術の世界に魅了され絵の上達を目指しただろうという推察です。京本はおそらくあの日あの時あの場所で自分と出会わなかったとしても、いずれは自らの意志であの部屋を出ただろう。藤野にとっては少々残酷な結果だったかもしれませんが、この想像世界の前半では抗えない筋道としてそれが描かれていました。「もっと絵…上手くなりたいもん…」に集約される京本の切実な想いを目の当たりにしましたので、推察というより確信に近かったかもしれません。

 

 二つ目は、その上で京本と共に漫画を描いていく未来への渇望です。この想像世界の後半は、いずれにしろ事件に巻き込まれるだろう京本を藤野が鮮やかに救い、ドラマチックな出会いを果たしてすべてが上手くいくシナリオになっていました。正に格好よく作られた漫画のようでしたので、「漫画だったらこんなふうに描き変えられるのに」という藤野の気持ちが滲んでいるようでもありました。筋書きが見事な分、動かせない現実の重みがかえって際立っていて、手に入らなかった人生への渇望が絶望に直結する表現でした。

 

 このときの藤野は、京本を救いたかったのと同時に自分自身が救われたかったのではないでしょうか。彼女はあくまで京本に背中を見せる側としてふるまっていましたが、二人の本質的な間柄は良きパートナー同士でありライバル同士であり、心を鼓舞し合える戦友同士(つまり同志)だったと感じます。京本を失うことは藤野にとって、自身の一部が欠け落ちるようなものだったことでしょう。もともと二人のものだった藤野キョウというペンネームが欠落をより強く物語っていると思います。

 

 

言葉と絵、それぞれの存在感

 

 前項で「京本を部屋から出した自分が彼女の死を招いたのだとショックを受けます。」と書かせていただいた藤野の様子ですが、漫画においては具体的に以下のような言葉で紡がれていました。

 

「私のせいだ……」

「私があの時……」

「漫画描いたせいで……」

「京本死んだの あれ? 私のせいじゃん……」

「京本っ 部屋から出さなきゃ」

「死ぬ事なかったのにっ あれっ?」

「なんで…?」

「なんで描いたんだろ…」

「描いても何も役にたたないのに……」

 

 この涙を溢れさせながらの自責部分、ストーリーの時間軸に沿って考えると、藤野が一人で連載をし始めて以降ラストシーンに至るまでの間に唯一声として発せられたセリフでした。コミックスのほとんど後ろ半分において、藤野は基本的にずっと黙っているのです。回想シーンと京本救済ストーリーを除けば、ここ以外に口に出して何かを言うことはありません。(ちなみに、劇場アニメでは電話で編集者にアシスタント環境の改善を求めるシーンが追加されており、藤野本人の声を通じて京本不在の影響が強調されていたことを補足します。)

 

 後半よりは吹き出しや会話の多いストーリー前半も、特に藤野が絵と向き合う場面においては言葉が排除される傾向がありました。部屋や学校で机に向かって描く場面はもちろん、京本にネームを見せる約束をした後の道のりや、京本と賞金で遊びに出かける場面などといった間接的な関わりのシーンでも、字ではなく絵で物語が言い表されているのです。

 

 無口にして雄弁。私はそのように感じました。

 

 思えば藤野の初期の4コマ「ファーストキス」では、隕石や地球を作画のみで表せず文字で説明していました。隕石に至っては漢字も書けていませんでしたね。「引きこもり世界大会」の「←京本」等も然り。字は絵の未熟さを言い表すものでもあったということでしょう。

 

 逆に、事件報道のテレビアナウンスでは一気にいくつもの吹き出しが割り込んできて、紙面に多くの文字が並んでいました。また、休載のお知らせは定型的な長文で、その内容同様それまで雄弁だった作中の絵での語りがいよいよミュートされたかのようでした。京本救済if内の事件再現シーンで差し込まれた黒文字×黒バックのコマも、絵で語れなくなった藤野の代わりに望まざる現実が不都合なネームを織り上げていくようにも見えました。

 これらの文字は藤野の心の不均衡を言い表しているように思えます。藤野は絵に注いでいた意識をそらされ、真っすぐだった姿勢を変えざるを得なくなった時点で平常を崩されており、そこから当作品(自分自身の物語)の主導権をも失っていったかのようでした。

 

 作者・藤本先生の本作における表現の基本がそういう絵主体の形式と捉えると、そんな中で声になっていた藤野の言葉というのがとてつもなく強い印象を落としてきます。絵が大切なモチーフと踏まえると、彼女がくだんの4コマ漫画を破り捨てる描写は実に凄まじい衝動だったことが窺えます。

 

 しかし、喪失からの自責は藤野にとって着地点ではありませんでした。「なぜ描いたのか」という自問が「なぜ描くのか」という根源的なテーマにつながっていったと思われるためです。

 

 

背中を見て

 

 京本の部屋の中から出現した4コマ漫画は、背中に刃物が刺さった藤野の姿をコミカルに描き出していました。これを現実に照らし合わせると、空想の中で京本を救ったところで実際の藤野もまた殺人犯にズタズタにされている、という解釈ができるようにもなっています。

 

 背中といえば。

 

「じゃあ私ももっと絵ウマくなるね! 藤野ちゃんみたいに!」

「おー 京本も私の背中みて成長するんだなー」

 

 こちらは本作で初めて明確に登場した回想シーンの会話からの抜粋です。美大通り魔殺人事件発生直後、藤野の記憶から差し込まれました。ルックバックはlook back=振り返る、背中を見るという意味ですので、ここでタイトルに対する答えの一部が出てきた形です。

 

 思い返せば二人が初めて出会った日、藤野は京本にせがまれて服(はんてん? どてら?)の背中部分にサインを書いていました。このとき二人に何が起きたかというと、

 

・藤野→ファンを公言され初めて実際にサインを書く。遠ざかっていた漫画への情熱が再燃し猛然とネームを描き始める。

・京本→大好きな藤野先生を追って籠っていた部屋から外へ出る。服にサインをもらいネームを見せてもらえることになる。

 

 なんとなく停滞していたそれぞれの時間がこじ開けられ加速していきました。

 

 藤野には京本の画力に圧倒されて4コマを辞めた経緯がありましたから、このときの心境はやや複雑だったはずです。が、そんな京本が自分にとってこの上ない読者だったという事実と、そんな彼女からの「どうしてやめたのか?」という直接的な問いが藤野を突き動かしたように思います。要するに、自分がもっと上手くなれば辞める必要なんてないのだ、という端的な事実を読者・京本に突きつけられたわけです。

 

 描くべし。描くべし。藤野の頭の中はそれで一気に塗りつぶされたのではないでしょうか。京本のように口に出したりはしませんでしたが、彼女とて上達したい気持ちは同じだったでしょうから。

 

 つまり、背中は藤野にとって漫画を描き続ける覚悟の象徴なのです。表紙にもあるように、作画中のシーンは主に真っすぐな後ろ姿が描かれていましたが、この作業中の姿には原点の覚悟が投影されていたように思います。

 

 救済ifの中の京本もまた、窓辺の机に向かう後ろ姿が藤野に重なります。ifパートは藤野の想像の世界ですから、京本も自身同様の心境だっただろう様子を迷いなく描き出しているところに描き手同士の絆を感じます。

 

 以上のことを踏まえると、京本の4コマとして描かれた「背中を見て」を藤野が見るシーンは、

 

美大の事件で心がズタズタになっていた藤野が、回想や空想を通じて同じように成長しようとしていたはずの京本の想いにシンクロしつつ、「描き続ける」ことを決めた自分自身の想いを思い出した、

 

 というふうに解釈できます。

 

 また、藤野が京本の部屋に入って振り返ったところ、ちょうどドアの裏側に自らのサインした京本の服が掛かっているのも、室内を窺うのは京本への気持ち、背中のサインは自分の覚悟の象徴でもあり、「背中を見て」同様に京本を経由して自分自身へのフォーカスに着地しています。

 

 この部分、二次元(漫画)と三次元(部屋)の二視点から重ねて描かれていることに藤野にとってのテーマの重要性を感じますし、三次元表現(部屋の中)より二次元表現(4コマ漫画)が先に登場しているところに、様々なものを犠牲にしていくつもの漫画を完成させてきた藤野の半生を重ねることもできると思います。

 

 藤野が自分で選んだ道を進み続けるためには描くよりほかありません。休載の憂き目に遭った後にあって、その大切な気づきを背負った後ろ姿が4コマのオチとして示されること自体、藤野に答えを与える希望でもあり現実を突きつける絶望でもありうる。藤本先生は、こうした藤野の姿を通じて表現者の光と影を描き出したように思います。

 

 

描き手の目と読み手の目

 

 ここで最初の回想の言葉を再び振り返ってみます。

 

「おー 京本も私の背中みて成長するんだなー」

 

 京本も。藤野のこのセリフには、「私も京本の背中をみて成長している」という思いが隠れているのではないでしょうか。ここで言う京本の背中というのは、上手さを追いかけたい背中であり、覚悟を署名した背中でもあります。初手の回想でここに触れているのは、彼女の成長の糧が京本方面(外)と自己方面(内)の二軸から成り立っていることの表れと受け止めていいと思います。

 

 紙面上直接説明されてはいないのですが、「絵が上手くなりたい」という願いの裏側には「漫画が好き」という純粋な気持ちがあると思われます。物語の最初の頃、藤野は本棚にジャンプ的な漫画雑誌などを並べていました。藤野とて、4コマ作画に手を出す前はただの一読者だったはずなのです。

 

 漫画という文化は、描き手と読み手がいてこそ成り立ちます。藤野目線で見れば、描き手としての藤野キョウ(内)と自分以外の読み手(外)の二軸となります。不意の事故でいなくなってしまいましたが、京本は前者と後者を兼任していた訳です。

 

 しかし、私は思うのです。京本はもう新たに絵を生み出すことはないけれど、藤野の中で永遠の読者として存在し続けるのではないかと。

 

 藤野は京本救済ifの中で自分の中の京本を完全にトレースしていました。もしかしたら連載作・シャークキックのネームにおいても、「京本だったらどう受け止めるか」という視点を持って取り組んでいたのかもしれません。物語最終盤、京本の部屋の机に読者はがきがぽつんと置かれていたのは、読み手・京本の命が尽きていないことの表れだったように思います。

 

 また、藤野も藤野で京本の絵を一番そばで見届けてきました。京本は作画中心の描き手でしたから読者、という言葉を用いるのは少し違うかもしれませんが、藤野は見る側の立場として描く側がいなくなる喪失感もまた京本を通じて味わうことになりました。

 

 彼女はようやくそこへきて、自身の連載を見てくれている読者のことを考える気持ちが生まれたのかもしれません。奇しくも一読者に過ぎなかった小学生の頃の自分の感慨が交差し、漫画家になった今現在の自分自身を支える者の心境に思い至ったのです。これはやや二次的な解釈ではありますが、もし採用するなら気づきを与えたのが京本であったことに藤野にとっての意味を感じます。

 

 そして彼女は立ち上がり、また机に向かうのです。一度は見失った内外二軸の概念の輪郭を再構築した、ということになりましょう。

 

 

なぜ描くのか1

 

 ここまで敢えて触れてこなかったのですが、この物語は例の事件を境に現実と非現実の境界が曖昧になっていきます。実際の過去回想やたらればの空想などが押し寄せてきますので、読む側はそれらに翻弄されながら藤野の心を辿っていくことになります。

 

 ここからはとりわけ個人的な解釈なのですが。

 

 藤野は喪服らしい姿になって以降、作業場から一歩も外へ出ていない可能性があると思います。つまり、京本の家、その廊下、その部屋、物語後半で描かれたすべてが彼女の思想のイメージを投影したものにすぎないのではないか、という捉え方です。ドアの向こうにいる京本が4コマ漫画を描いて寄越す演出は特にファンタジックで、非現実感を強調しているように見えますし。

 

 この説を推すとなると、「言葉と絵、それぞれの存在感」の項で述べた藤野の自責のセリフ群はあくまで心の中の慟哭で、実際には作業場でうなだれながら嗚咽しているのかも、すなわち物語後半は無言を貫いている=言葉ではなく絵で物を言う世界観が徹底されているのかも、などといった想像を広げることができます。

 

 たとえば窓。作中、窓が映り込むシーンは多々ありましたが、そのほぼすべてが締め切られていました。プロになった藤野の職場などはめ殺しの大窓で、開ける余地すらないように見えます。それが、「背中を見て」の4コマが京本の手をすり抜けるシーンや、藤野が最後に見た京本の部屋の窓辺などでは開いていて風が吹き込んできており、明確に区別されていました。

 

 締め切られた窓は、創作に向き合う苦しみの象徴と思われます。亡くなってしまった京本は現実のそういった苦悩からは解放された、という表現の一端ではないでしょうか。

 なお、アニメの方では時々漫画でははっきり描かれなかった箇所でわずかな風が4コマ紙を揺らす演出が見られました。いずれも次の展開への気配を感じる場面でしたので、アニメサイドでは風を漫画創作のフィールド内にも持ち込んで解釈し、藤野の背中を押すような意味合いでも表現していたように思います。

 

 たとえば窓に貼られた4コマ紙。描きたい意欲は生みの苦しみと常に隣りあわせ、の象徴と感じられます。この描写は京本の部屋にも藤野の作業場にも見られますが、いずれも藤野の心象風景として捉えるなら、見せてきた背中と追いかけた背中の両概念=それぞれの矜持を投影するアイテムだったように思います。

 

 窓の外を過去と現在で比較してみると、かつては季節を感じる風情があったものの今は都会的で変化があまりありません。藤野が漫画を描くことにのめり込み始めた頃など、カレンダーの月や購入した参考書・描き溜めたスケッチブックの数等で時の経過が説明されていましたが、単独・藤野キョウになってからは時間の流れがほとんど刊行された漫画本の冊数だけで示されるようになり、客観的にはわかりにくくなっていました。時間が原稿によってのみ積み重なっていくようで、作業空間は広くなったのに窮屈さはむしろ増しているかのようです。

 

 京本不在の痛恨を差し引いたとしても、連載を持ってからの藤野は漫画家として納得のいく手ごたえを感じにくいフェーズに入ったと思います。劇場アニメの方では作品掲載順位のグラフ演出がありましたが、総じて商業主義に追われる宿命や、そんな中で原点の衝動や熱意を見失わずに自身の表現をし続けることの難しさが感じ取れました。何事も伸びしろを一定以上消化すると上昇線が鈍ってくるものですし、物語序盤では目を引いた自信家の風情もすっかり見受けられなくなりました。

 

 これらは「背中を見て」の項で触れた「表現者の光と影」の影の部分に当たる描写だと感じます。表現の創出には常にそういったものが付きまとうのでしょう。

 

 

なぜ描くのか2

 

 「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」

 

 最終盤の京本の声は藤野に問いかけます。発した本人は他意なくたずねただけだったかもしれませんし、京本の声を借りて表された藤野の自問だったかもしれませんが、これはクリエイターを自認する者の存在証明に直結するキラークエスチョンでもあります。投げ出すのは簡単でもそうはしない理由があるんでしょ? 作画の手が止まっていた藤野にはそんなふうに聞こえたのではないでしょうか。

 

 冗談ともつかない風情で語られていた「読むだけにしといたほうがいいよね」「描くもんじゃないよ」あたりの一連のセリフは、京本に心を許していたからこそこぼれた藤野のちょっとした本心と思われます。返す刀で究極の質問が突きつけられていますから、最大級の前フリになってしまいましたね。漫画家・藤野の愚痴と本音を引き出せるのは藤野キョウを分け合った京本だけなのかもしれません。

 

 小学校卒業当時の描写では明かされなかった藤野の下の名前が最後の最後で歩と明かされるのがまた、再出発への希望(光)のようでいて生まれながらに業を背負っている(影)ようでもあり、作者の意図を感じます。学生には卒業証書がありますが漫画家という職業には明確な卒業の証はありませんから、歩んだ分だけ続いていくことになりますよね。「絵描くの卒業した方がいいよ…?」というかつての同級生の言葉や、藤野が京本家を訪れた時の「卒業の証届けにきたのですがあ」などの言葉は、このベクトルでの伏線だったと受け取れます。

 

 窓辺の藤野は、それらの混沌を抱えてでもこの表現で生きていくのか、というクリエイターたちの命題を宿していると思います。連載獲得後の彼女が言葉少ななのは漫画家の日常だからかもわかりませんが、このテーマを踏まえると藤本先生が自分の表現で立ち向かっているようにも見えてくるのが作品構造上深いです。

 劇場アニメのエンドロールで声の出演者より他の制作陣のクレジットが先に置かれていたのは、絵を創り続けるという本作のテーマに照らした順列だったのではないでしょうか。

 

 ちなみにアニメでは序盤にネタ帳の表紙が映り込み「フジノアユム」というフルネームが明かされていました。これは最後の「歩」に伴うカタルシスを保持しつつ、藤野が歩む姿に観客の目を向けさせたい意向ではないかと考えます。あれが小四なりの覚悟の署名だとしたら、漢字ではなかったことにまだ照れが見られますかね。

 

 一つ大事なのは、最後に藤野が自らの作業場に貼り付けた4コマ紙は回想でも空想でもなく紛れもない現実だということです。アニメも含めてよく見てみたのですが、この4コマの内容ははっきり描かれていませんでした。察するに、藤野が自らの持ち物である空白の4コマ紙に様々な想いを投影して目の前の窓に貼りだしたのではないでしょうか。京本や漫画に対する気持ちをこれからも掲げていけるように。

 

 休載以後の描写を改めて振り返ると、背中のサインを見つけるまでの絵を基調とした想いの流れすべてが、藤野にとって自身の心の整理を伴う京本との別れの儀そのものだったように感じられます。ですから、京本の遺影も藤野の心象風景だった=葬儀に参加したわけではない、というふうにも見えるのです。そんなときであっても絵を描くことが一番の報い。一見矛盾するようですが、これが漫画家・藤野が選んだ漫画家・京本に対する真摯なる答えという気がします。

 サインを見つけた後藤野が田舎道を歩く後ろ姿は漫画家として心を立て直した何よりの思想イメージであり、机に向かう背中を思わせる覚悟がひしと感じられました。この後4コマ紙を貼るシーンへきれいにつながるのが、心の旅を終えて在るべき現実に帰還したことを示しているように思えます。

 

 ここまで辿ると、この4コマに始まり4コマに終わる「ルックバック」という物語は、最終コマの藤野が心に携えている大事なものの骨格だったようにも見受けられます。人の骨格は散々描いてきた藤野ですが、彼女の漫画家としての矜持の骨格があぶり出された話でもあったと思います。京本救済ifの中で藤野が足を骨折していたのは、心根における手負いの自覚が顕在化したものと考えると筋が通ります。

 

 また、いつか藤野が何かにつまずいて漫画を描く手が止まったときには、「ルックバック」で描かれたすべてを改めて振り返るのかもしれません。そのときは本作全体が未来の藤野にとっての大切な回想になることでしょう。立ち返るべき場所として、彼女の中に生き続ける背景なのですから。

 


 

 

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新本格ミステリ作家読み比べ「7人の名探偵」感想

綾辻行人、歌野晶午、法月綸太郎、有栖川有栖、我孫子武丸、山口雅也、麻耶雄嵩の七人が寄稿。「十角館の殺人」の刊行から三十年の記念に講談社が出版したアンソロジー「7人の名探偵」を読みました。2020年8月発行の文庫版です。

読書中ちょうどHuluのミステリーシネマの広告が解禁になり、「スイス時計の謎」(有栖川)、「リターン・ザ・ギフト」(法月)、「メルカトル悪人狩り」(麻耶)の実写化が話題になっており縁を感じましたので、手軽に作家たちの雰囲気を味わえる一冊としてこちらの短編集をご紹介してみます。

 

作者/作品名

 1)探偵名と、ざっくりどんな話か

 2)読みやすさや、シリーズの履修なしでも問題ないか

 3)感想

 

こんな感じで掲載順に書いてみます。

要所はネタバレしないようにしました。

 

7名の著者に絡めて言えば、私は綾辻先生の館シリーズを2冊読んだくらいのまあまあ初心者でしたが、十分楽しませていただきました。

 

 

麻耶雄嵩/水曜日と金曜日が嫌い-大鏡家殺人事件-

 

 1)銘探偵・メルカトル鮎(あゆ)&ミステリ作家・美袋三条(みなぎさんじょう)。洋館にメイドと住まう四名の音楽家たちを巡る殺人事件。

 

 2)シリーズ物につきやや初見殺し感あり。ある程度設定を知っている読者を想定して書かれている印象だが、次第に馴染める。メルカトルが人名であると知らずに読むと戸惑う箇所がある。一方で、メルが登場した後の方が物語に推進力を感じる。

 

 3)7作中謎解き部分にいちばん驚かされた。ミステリをちゃんと読んできている人ほど面白がれる仕掛けが施されているもよう。長編でじっくり描けそうな舞台装置でありながら短編であっという間に解決されるので、好みは分かれるかもしれない。

 

 

山口雅也/毒饅頭怖い 推理の一問題

 

 1)住職の無門(むもん)道絡。毒殺された疑いのある父親に対し、五人の息子たちに容疑がかかる。

 

 2)落語の「まんじゅうこわい」をモチーフにしており物語の大半は語り口が噺家のそれ。時代ものをあまり読んでいない私には人物の受け止めが少々難儀だった。それでもおよそ軽妙に読ませる。いきなり読んでも大丈夫だがシリーズものらしい。

 

 3)謎解きの詰め方はやや平板な印象だが、物語は落語の形式を上手く使っている。読後はそのフォーマットの強さが残ったため、作家ならではの特質を良くも悪くもつかみ損ねた感がある。

 

 

我孫子武丸/プロジェクト:シャーロック

 

 1)敢えて割愛。二つの相反するAIが物語の鍵。

 

 2)1作目の先制パンチに2作目の落語ものとやや翻弄されてきて、こちらはかなり落ち着いて読めた。読み切りらしくいきなり読んでも大丈夫。

 

 3)ちょっとしたホラー味がある。落ち着いて読めることがそれを際立たせている気もする。読後余韻濃いめ。当作あたりで、同じ新本格と括られるミステリ作家たちの個性の違いが面白くなってきた。

 

 

有栖川有栖/船長が死んだ夜

 

 1)犯罪社会学者・火村英生(ひむらひでお)&ミステリ作家・有栖川有栖(ありすがわありす)。船長というあだ名の元・海の男が何者かに刺殺される。

 

 2)シリーズ物だが人物説明の描写等が初読者にもやさしく、いきなり読んでも平気。

 

 3)骨組みがシンプルで、初心者でも物語に入っていきやすかった。こういう話ほど魅せ方が難しそうだけれど、特に最後の伏線回収には「なるほど」。ここまででおよそ本の半分に到達。

 

 

法月綸太郎/あべこべの遺書

 

 1)ミステリ作家で探偵の法月綸太郎(のりづきりんたろう)&その父・法月警視。遺体と遺書の組み合わせが入れ替わっている二つの事件が発生。

 

 2)シリーズ物だがいきなり読んでも平気。家での会話劇で進み、設定がややこしいわりに読みやすい。

 

 3)個人的には7作の中でいちばん面白かった。事件のなぞり方、描き出し方を含め、筋書きの組み立てが良かった。

 

 

歌野晶午/天才少年の見た夢は

 

 1)名探偵・鷺宮藍(さぎのみやあい)。近未来の戦時下、少年少女たちが逃れたシェルター内で死者が出始める。

 

 2)SF的読み切りと思われる。一度に何人ものキャラクターが出てくるので識別に少々手こずった。筆致は平易だが狭さと隔絶からくる閉塞感がある。

 

 3)表現にヒントがあり初心者的には新本格の勉強になる。当たるかな? と軽く推理してみたが外されてしまった。醍醐味を削ぐため、それ以上はどうにも感想を書きにくい。

 

 

綾辻行人/仮題・ぬえの密室

 

 1)著者をはじめ、京大ミステリ研出身の作家たちが実名で登場。過去に発表されたと思しきうろ覚えの「犯人当て小説」について、記憶を持ち寄りながら紐解いてゆく。

 

 2)周年記念ならではの特別感を伴うエッセイといった風合い。館シリーズとは異なる空気で読み口が軽い。

 

 3)そういうのもあるのか、というオチがちゃんと用意されている。できたら謎解きの部分にもう少し厚みが欲しかった。あくまで創作物という前提で受け止めるべきだが、自作に関する言及もあるのがいい。先生たちの素の気配が感じられるのは貴重。

 

 

【おまけ】

佳多山大地(ミステリ評論家)/解説 You ain’t led nothing yet (お楽しみはこれからだ)

 本格や新本格についてほか、7人の作家と作品についてベーシックな情報を親切に教えてくれており、ミステリ初心者にとってありがたいガイドページとなっている。7作家のおすすめ作品も紹介されており、次の一冊への動線にも抜け目がない。

 

 

 7通りの物語、どれが一番気になりましたか? 短編ですし、別々の作家の小説群なので順番通り読まなくても大丈夫です。見てみたくなったら気軽にめくってみてくださいね。

 

 ※一部敬称を省略させていただきました

 

2026.3.30追記

今週のお題:新! に絡めるつもりでしたがエントリーを忘れていたことに気づきました……

 

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積読は準備という文化なのです

 最近読書熱が上がってきました。多分「十角館の殺人」のドラマ化で盛り上がって原作を読み直したのがきっかけです。元来本は好きだったはずなのに近年読書から遠のいていたので、良い機会を授かりました。まあその、バンバン人が死んでいく話ではありますけども。

 

piyokomushi.hatenablog.com

 

 本を読むリズムができてきて思ったのが、そういえば持っているのに読めていない本があるなあということ。買ったはいいものの読み始めていないものもあれば、一度は読み始めているのに途中で止まっているものもあります。そんな状態なのに、目についた別の本を新たに買ってしまったりして、だんだん本棚のカオスみが増していく現状をどうしてくれましょう。このあたり、読書家さんの間ではあるあるですかね。

 

 いわゆる手元にある読めていない本を「積読(つんどく)」と呼ぶ文化を知ったのは割と最近なのですが、この言葉、明治時代から使われている造語らしいんですね。現象としては江戸時代からあったらしくて更にびっくり。日本人というのは、好みの本に目星をつけ、かつ持て余す、ということをけっこう前からやっていたようです。なんだかいじましい。

 逆から捉えれば、令和になった今でも変わらないものをひとつ見つけてしまいました、ということになりますかね。先の大戦時など、日常が日常ではなくなってしまった時代には鳴りを潜めたかもしれませんが。

 

 積読って、要するに準備なんですよ。読むつもりだという心積もりの実写化。前向きな気持ちの実体化。それがキャパシティーを超えるくらいにあふれてしまうだなんて、なんて尊い知的好奇心なのでしょう。

 また、年号を四つ(下手したら五つ)遡った頃、既に未読本を「積んで」いたわけですから、背景が「そういうものだよ」とたしなめてくれている気もします。はてさて、昔の人もまた、すぐ読めないことへのちょっとした罪悪感を覚えたりしていたのでしょうか。「積んで」いることは「詰んで」いることだったりしたのでしょうか。

 

 積読は「Tsundoku」として海外の一部の国でも紹介されているそうで、もはやこれは人間の通俗を表す立派な文化として受け止めていいと思います。今パソコンでテキストを入力していますが、「つんどく」って打つとちゃんと「積読」って変換が出てくるのもまた、その文化の浸透や定着を感じます。

 

 一見冗談みたいな言葉の裏にもちょっとした歴史が存在しておりました。人と書物がある限り、このささやかな営みはこれからも続いていくのでしょう。積読も悪くない。と信じたい。

 

 

 ※記事中の「積読」にまつわる情報はGoogleAIとCopilot Searchの回答より抜粋要約しています。

 

 ※今週のお題「準備していること」

 

 

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ネタバレあり「十角館の殺人」Hulu実写化の感想と考察を改めて書いてみた

 2025年末および2026年始め、Huluの実写版「十角館の殺人」が日本テレビ(関東ローカル)にて地上波再放送されました。「時計館の殺人」が実写化第二弾として放送決定した記念と思われます。

 以前、原作の小説を履修済みの状態で見た1~2話までの所感をネタバレしないように書くという謎の縛りプレイをやってみたのですが、今回は全部見た上での感想と考察を改めて書いてみたいと思います。ネタバレありで、筋書きを辿るというより気になる所を掘り下げる記事になりました。

 なお、主役コンビへのフォーカスが多く、角島より本土のトピックが多くなっております。

 

CONTENTS

 

 

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念の為あらすじ

半年前、凄惨な四重殺人の起きた九州の孤島に、大学ミステリ研究会の七人が訪れる。島に建つ奇妙な建物「十角館」で彼らを待ち受けていた、恐るべき連続殺人の罠。生き残るのは誰か? 犯人は誰なのか?

綾辻行人「十角館の殺人」講談社文庫裏表紙より抜粋引用
 

 

「あの一行」の衝撃を実現した手法について

 

 犯人のアリバイ工作、鮮烈な叙述トリックですが、役者さん、カメラさん、照明さん、衣装さん、ほかもちろん監督さんや関係スタッフさんたちがワンチームで練り上げたアイディアの掛け算だったと思います。

 小説だからこそ成り立つと思われていたギミックをやってのけたので、もうそれだけでもすごいことですが、筋書きを知っていてもおよそ説得力を感じられるものになっていましたので、素直に楽しむことができました。Huluさん素晴らしい。

 

 というわけで、守須恭一(小林大斗)のあだ名がヴァン・ダインで、本作は彼の凶行をめぐるミステリーでした。これは記事の性質上どうあっても回避できないので早々に明記いたします。あしからず。

 

 意表を突くこの仕掛け、江南孝明(奥智哉)の役割が地味に大きかったですよね。彼は作品を通じて守須を「守須」と呼ぶことに徹していました。一度でも「ヴァン」と呼んでしまえば珠玉のトリックが崩壊してしまいます。ミステリー作家の名前で呼び合う文化に違和感を持つ性質により、彼は小説の時から作り手側に統制され、トリック保持のバリケードになっていました。

 

 そうなってくると不思議なのが、そんな江南もエラリイ(望月歩)を「エラリイ」と呼ぶ点です。こちらも違う呼び方は登場せず一貫してエラリイ呼びでした。シナリオ上そうでないと「あの一行」につながらないので、と受け止めるのは簡単ですが、今回の映像化で得たイメージからちょっとした二つの仮説を立ててみました。

 松浦純也=エラリイは常日頃から芝居がかった大仰な物言いをするキャラクターです。江南の素直で純粋な人となりから察するなら、ここまでやってくれるならもう松浦は「エラリイ」でいいよ、的に認めた形。もしくはミステリ作家呼びに嘘くささや自己陶酔を感じる江南からすれば、相手に腰が引けてしまうというか、反りが合わないというか、辟易してしまうというか、なんならウザい感じの心証で、少々の皮肉を込めての「エラリイ」が定着してしまった形。

 いずれとも断定はできかねますが、望月さんの伸びやかな演技を拝見するに、なんだかそんな気がした次第です。実際、エラリイみたいな役は俳優さん的に演じていて楽しそうだなとも感じます。

 

 また、本作は人物の初登場シーンで名前と肩書きが表示されていました。内容としては「K大学ミステリ研究会部長・エラリイ」といった具合です。ここを真っ当にやってしまうとこれもまたトリックバレのリスクが伴うところですが、ヴァンの島での登場シーンでは場面に馴染むよう表現を変えていたのが心憎かったです。

 

 文字つながりでいけばエンドクレジットもどうするんだろうと気になっておりました。うまいこと隠しましたね。結果、秀逸主題歌・ずっと真夜中でいいのに。さんの「低血ボルト」は2回しか聴けない仕様となってしまいましたが、温存からの炸裂とでもいいますか、決め所からの曲への持って行き方が見事に狙いすました感じで決まっていてグッと惹き込まれました。

 主題歌については後ほどもう少し言及しますね。

 

 

謎解きにおける表と裏の立役者

 

 犯人と探偵による最後の対決シーン、小説では対峙するのが島田一人でしたが、本作では江南とのコンビで挑む格好となっていました。整理して記しておくと、江南孝明役は奥智哉さん、島田潔役は青木崇高さんが演じていらっしゃいます。CMでも「この二人が挑むのは十角館の謎」とうたわれており、小説より二人の存在感が強調されていました。ドラマにするにあたり、ここを主役として立てたい意向が制作サイドにあったのかもしれません。

 

 CMといえば、キャラ紹介がちょっと面白いんです。江南が「元ミステリ研究会の大学生」なのは順当ですが、島田が「ミステリー好きな大人」。風来坊につきもっともらしい肩書がないのです。上の項で触れた初登場シーンの紹介テロップもシンプルなものでした。

 

 この有り体に言えば無職?フリーター?な島田がいっそう輝く演出が、ドラマ版には仕込まれていました。仕掛け人は江南の下宿先の大家さん(濱田マリ)です。ドラマオリジナルのキャラクターですね。クレジット上では「松本邦子」と役名がありました。

 

 本土側の物語の最序盤、江南が麻雀で負けて帰って来た時、出くわした大家さんが彼のていたらくを完璧に言い当てます。江南はばつの悪さを拭うように「大家さん辞めて探偵になったらどうです?」と応じますが、彼女はこう切り返します。

 

「探偵? んなもん、カタギのやるもんじゃない」

 

 すなわち、堅実な職を持ち合わせていない島田が「探偵」に対し抜群の適性を持っていることがこの時点で語られていたのです。このシーンの少し後、島田はストーリーに初登場を果たします。

 

 大家さんは最終話でも江南に声をかけ、角島の一件でしょげ返っていた彼の心に火をつけます。松本さん、ただのクセ強モブかと思いきや、けっこう大事な役回りを担っておられました。本人はただただ己の道を突き進んでいるだけで、シナリオ上「探偵役」への示唆や起点になっている自覚などないんですけどね。濱田さんの好演が光ります。

 

 後述していきますが、本作にはこうしたドラマ版なりのオリジナリティが見られ、原作とは少し趣の異なる魅せ方で見事に色付けされていました。メインの脚本は「半沢直樹」や「VIVANT」で知られる八津弘幸さん。中には正に小説の行間を突くような解釈もあり、読破勢でも楽しめるシナリオだったように思います。

 

 

島田はいつ犯人に目星をつけたのか

 

 怪文書について中村紅次郎(東京03・角田晃広)からの相談を受けた島田は、彼の邸宅で出会った江南と意気投合します。言っても、江南は同様の手紙を受け取った本件の当事者であると同時に、過去の飲酒事件にもつながりを持つミス研の関係者ですから、島田からすれば心の底では容疑者の可能性も排除できないと考えていたのではないでしょうか。この後出会った守須に対しても同様と思われます。

 

 絶好の仲間を得た島田でしたが、守須は安楽椅子探偵に甘んじ、推理をめぐるスタンスの行き違いから道半ばにして探偵役を降りてしまいます。そして江南もまた、角島十角館事件の発覚後になって推理から身を引くと言い出しました。意地悪な見方をすれば、江南の方は目的を果たしたが故の退場なのか、と勘繰れるタイミングでした。

 

 ボートを使って本土と島を行き来できる可能性を下敷きに、紅次郎犯人説に傾いていた島田の思考は、これでちょっぴり江南に向いた余地が考えられます。しかし、江南にはここ数日、島田自身と行動を共にしていたという鉄壁のアリバイがありました。

 ですから、島田は「では誰ならこの犯行が可能なのか」というテーマをふまえつつ、江南同様推理合戦の表舞台から途中退場した人物がいたことを必然的に思い出したのではないでしょうか。当初は些細な疑問でしかなかった彼にまつわるいくつかの要素が折り重なり、その思い付きを補強していったように感じます。中村千織(菊池和澄)のお墓に花を手向ける者がいたこともまた然り。推理のイメージが更に膨らんだことでしょう。

 そしてこの後に描かれた島田の単独行動で、江南の離脱が結果として島田の着想につながったという解釈が成立します。さすがにこの時点で確証はなかったでしょうが、頃合を同じくして大家さんの計らいで江南が復活しますので、最後にもたらされた彼の仮説によって曖昧だった動機の可能性が浮上し、島田の推理における決定打になったものと思われます。

 江戸川じゃない方のコナンくん、隙を感じるキャラクターなのにしれっと有能なのが実に良いです。

 

 

ホームズを出し抜いたワトスンの推理と探偵交代劇ににじむもの

 

 島田と江南の二人は、こなんくん、島田さん、と呼び合い、出会った初日から謎解きへの情熱という共通点で一気に距離を縮めた即席探偵コンビです。1日目では守須にその猪突猛進ぶりを指摘されていた自認ワトスンの江南でしたが、物語最終盤に唱えた仮説が奇しくも元相棒・守須の心境を激しく揺さぶることとなりました。小説にはなかった趣向で、犯人が最後の行動に至る経緯が論理的に描かれた形と言えましょう。

 この後、合流した島田と共に守須に迫るクライマックスシーンへつながっていくのですが、この場面に江南が一緒にいることの意味が深い。

 守須と江南の大学ミス研探偵コンビは、最終的に「友を掌で転がそうとした犯人」と「友に裏切られた探偵」になってしまいました。そして、江南の後発の相棒として台頭した島田が「右腕と真理を得た名探偵」になったと思うのです。小説の表現では島田が本当に真理を見抜いたかが曖昧でしたが、私は当ドラマにおいてはほとんど正鵠を得ていたものと受け止めました。

 

 このように江南を含めた三人の姿を置くことで、原作では表現されなかった関係性が際立つ脚色だったように思います。島田の心境は、殺人犯への忌避や非難の感情、傷を負うことになるだろう江南への想い、それでも表沙汰にするべきという探偵の矜持などがない交ぜになっていたことでしょう。自身の究極の仮説を最後まで江南に打ち明けなかった(打ち明けられなかった?)のは、この複雑な思いがただの「ミステリー好きな大人」としての信条を上回った一つの結果だったのではないでしょうか。

 このときの守須と島田の関係性は「ワトスンに足をすくわれたエセホームズ」と「ワトスンを利用された怒れるホームズ」でもあったはずです。抑制しながら啖呵を切る青木さんの演技にご注目ください。

 

 また、そのように「信頼していた守須に裏切られた江南」と「江南にまさかの真実を突きつけられた守須」は、角島で登場した殺人予告のプレートになぞらえれば「探偵」と「殺人犯人」であると同時に「最後の被害者」でもあったのではないでしょうか。江南がこの悲劇を知るのは少し後になるはずなので、正確さを期すなら「最後」は江南になりますかね。どうあれ、あの波打ち際のシーンには様々な要素が効果的に含有されていたように思います。

 

 

届かない“助かれ..”

 

 ずとまよさんの「低血ボルト」から言葉を拝借すれば、今回の犯人はさしずめ、人に対しては“無敵になれた”“頭でっ価値”だったと思います。主題歌は原曲から抜粋されて流れ、“助かれ..”という歌詞の所で終わるので、余韻が濃く残る気がしました。「助けて」ではなく「助かれ」であることに、とにかく孤独の裏返しを感ぜられます。

 孤独というテーマは、犯人のこれまでの歩みや行動理念に深く関わりますし、全体的にイメージが重なるエンディング曲でした。小説の方では、ドラマでは触れられなかった彼の背景が語られてもいますので、ご興味があればお手にとってみてください。

 個人的には、犯人を思い浮かべながら“助かれ..”を聴いた後で「このドラマはフィクションです」という表示に切り替わる流れ、「ま、所詮フィクションだし」って彼なりの思いをぶった斬っているようにも見えますし、彼とそれ以外の間に介在する溝がパッと発現したようにも見えるんですよ。制作側からすれば必要な手続きをしているだけなんですけどね。

 “助かれ..”に江南を重ねてみると、祈ってもこの後の悲劇(友との亀裂)は避けられない様相、という感じになります。人懐っこくてちょっとだらしない所のある彼を見るに、守須が平凡に欲しかっただろう家庭環境をほしいままにしてきた感があって、心がざわついてしまいます。

 

 

あのトリックだけじゃない、Huluが仕込んだ映像化の小ネタ

 

 南は「安楽な探偵K、登場!」というタイトルのミステリー小説を書いていました。これも原作にはない設定です。Kは江南(カワミナミ)のイニシャルでもあるのですが、モデルは自分自身ではなく憧れを書いただけ、と説明する場面がありました。一方で、本土のホームズ・ポジ、守須恭一(キョウイチ)と島田潔(キヨシ)もまた下の名前の方のイニシャルがKなので、視聴者の気づきを促しそっと探偵役を立てる演出だったように思います。

 察するに探偵Kのモデルは守須で、江南は守須の探偵ぶりにあこがれを抱いていたのでしょう。かの大谷翔平さんは「憧れるのをやめましょう」という名言を残しましたが、比するに江南の素直さや未熟さが表されたエピソードだったと感じました。

 ドラマの中の島田は仲間二人の様子を見ながら、江南の「守須への信頼≒依存」などからその弱点的性質を察していた気配があったので、これもまた大詰めの推理に役立った要素だと思います。

 その島田はというと、江南を自分の盾にしたりうまく動かすようなこすい真似をしたりしていましたから、たしかに安楽しようとする探偵Kだったかもしれません。実際にはかなり奔走していましたけどね。

 

 ラリイが持っているライターの表面には、大きなスペードのマークがあしらわれていました。トランプマジックを嗜む彼の性質を色づける小道具です。スペードのエースを彷彿とさせますが、GoogleのAIによりますと、これは52枚の中で最も強いとされるカードであり、かつタロットや占いにおいては死や不運の前触れとされることもあるそうです。意味ありげですね。

 

 島のエラリイと本土の島田は同じような茶系のジャケットを羽織っていました。オレンジに近い明るい色味なので少々力技なのですが、シャーロック・ホームズの服装からイメージされる茶系を背負っていることから、シナリオ上の「探偵役」の示唆だった説も否めません。そういえば守須も茶色っぽいバンダナ?で髪をまとめている場面がありましたね……。

 

 学生コンビが「「バールストンギャンビット!」」と仲良くハモったあの日、島田はその仮説の穴を指摘します。推理の錯綜が描かれたこの場面、守須と島田がなぜか同じような色味(紺色)のトップスを身に着けていたのもまた目を引きました。上着の中に着る長袖です。のちに決裂する二人もここでは表向きに同志、というこじつけニュアンスで見ると、寒色なのが冷戦の雰囲気っぽくていいんですよ。

 それを受けて島田の装いをざっくり確認してみたところ、紺ではない日もありましたが、ずっと印象が似ているトップスを身に着けていました。江南も江南で、何らかの青っぽさがある服を着ているシーンが多く見受けられました。

 

 さて、色というテーマで思い出されるのがシャーロックホームズシリーズの一作目「緋色の研究」です。本作でモチーフとして登場しているホームズとワトソンが活躍するアーサー・コナン・ドイルの長編小説で、ここで言う緋色というのは

「人生という無色の糸に混じる「殺人」という鮮烈な赤」

を指すそうです(GoogleのAIより引用)。ですから、赤の側にいる殺人犯に正対する探偵役に反対色の青を重ねたと捉えると辻褄が合うので、ドイルのミステリへの密かなるオマージュと見てもいいと思います。

 

 ちなみに、守須宅で三人が紅茶を飲んでいたコップに目をやると、島田は全体が一色の青、守須は茶色と青のコンビカラーのものを使っており、これも見ようによっては恣意的です。十角館のコーヒー×十角形カップのほうが印象的ですけどね。

 

 ドイルにも名前のルーツがある人気作の「名探偵コナン」は、主人公・江戸川コナンのベーシックな服の色が紺寄りの青なので、そのイメージを本作の探偵役に重ねている可能性もあります。何しろ十角館もコナンも同じ日テレ系ですから、そんな遊び心が潜んでいてもおかしくはないのです。孝明コナンもいることですし、などと想像するのも面白いです。角島のミス研メンバーの服装から同系統の探偵みを測るのもまた一興。

 緋色の件を踏まえると、原作マンガを描いているのが山剛昌先生なのには驚いてしまうのですが、素敵な偶然ということでいいのでしょうか? コナンにも緋色シリーズというのがあるようですし。コナンくんの服が青い理由ってもしかして……?

 

 

 感想というか妄想混じりになってきたかもしれません。仕切り直しまして、いかがでしたか? 気づけたら面白い要素がまだ隠れているかもしれませんし、改めてこのドラマをお楽しみいただくのもありだと思います。ネタバレ記事と前置きしつつ敢えて書くことを伏せた部分もありますので、よかったらチェックしてみてくださいね。

 

 

 ※一部敬称を略させていただきました。

 ※GoogleのAIは要するにGeminiらしいです。

 

 

 ↓ 衣装の色に囚われたといえばこのときもそうでした

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むしろ引き返すことを考えている?野口健さんに学ぶ登山と人生の極意

 徳光和夫さんと田中律子さんコンビのバス旅番組・テレビ朝日系列路線バスで寄り道の旅(2026.1.25OA)にて興味深い話がありました。

 この日のゲストはアルピニスト野口健さんと、そのお嬢様で同じく登山家の野口絵子さん親子。登山グッズのショップに寄ったりしながら東京都内の低山登山めぐりをする企画でした。

 

 道中、野口健さんが登山中についておっしゃっていたのが、「三分の一は登頂することを考えている。残り三分の二はどう引き返すかを考えている」ということ。やってもいい無理やったらいけない無理があるのだそう。

 

 登山家の頭の中は、登りきることより、諦めることの比重が大きかったんですね。

 

 登りきる喜びを知る人ほど成果に邁進したくなりそうだけれど、引き返す選択を持てる人でないと山に入ってはいけないということでしょう。命に関わりますからね。

 

 小学生の頃から父に連れられて登山を始めたという絵子さんの八ヶ岳登山のエピソードもこれに重なる話でした。

 親子で挑んだ冬の八ヶ岳、途中の山小屋で「引き返す」ことをお父さんが決めて、絵子さんは上を目指さないことに戸惑ったのだとか。

 ですから、彼女はやっちゃ駄目な無理を山で身をもって学んだことになりますね。若くして、瀬戸際のすごい経験をされたことになりましょう。

 

 

 この登山における「引き返す勇気」って、日常生活にも落とし込める気がするんですよ。

 

 行くべきか。行かざるべきか。

 

 人生の大きな岐路に関わるような場面はもちろんですが、仕事や学校や家庭内での立ち居振る舞いなんて、ちょっとした判断の連続ですよね。

 

 ・問題発生、すぐにでも上司に報告したいが今は旗色が悪そうだ。どうする?

 ・明日締切の宿題を忘れていたが、正攻法では間に合わないかも。どうする?

 ・あの趣味を充実させたいが家族から反発があるかもしれない。どうする?

 

 行くべきか。行かざるべきか。

 

 命には関わらないかもしれないけれど実に悩ましい日常の選択肢。人はけっこうこういう局面に晒されながら生きていますよね。上記はあくまで一例ですけども。

 その無理はやっていいのか否か、という視点はつどつど発生しているはずですが、山という場所の究極性を想像して重ねると、もしかしたらその審美眼を磨くことができるのかもしれません。なるべく正解を多めに選んでいきたいものですね。

 

 

 そういえば、番組中BGMでくるりの「ワンダーフォーゲル」が流れたのは良かったです。たしか「さあ出発!」って感じのところで鳴って、アッパーなイントロが映像を引き立てていました。

 こっそりもう一言添えると、この曲の物語イメージは「うまく登れていない」ので厳密にいえば番組との相性は微妙なんですけどね。個人的に、くるりさんのこの「歌詞と音の乖離性」は「本心と表層のはざま」を表現していると考えていまして、生きることの難しさが表されているように思いますよ。山登りってモチーフとして優秀ですね。

 番組スタッフ様がどこまで思い入れを持ってワンゲルを選曲したのかはわかりませんが、いずれにせよ引き返すテーマの話に惹かれた私にとっては「あり」だなあと思えたのでした。

 

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「十角館の殺人」Hulu実写化の感想をネタバレしないように書いてみた

半年前、凄惨な四重殺人の起きた九州の孤島に、大学ミステリ研究会の七人が訪れる。島に建つ奇妙な建物「十角館」で彼らを待ち受けていた、恐るべき連続殺人の罠。生き残るのは誰か? 犯人は誰なのか?


以上、講談社文庫裏表紙より引用しました。

綾辻行人先生の十角館の殺人のあらすじです。

 


この作品が映像化されると聞いたときには驚きました。

映像化したら犯人のトリックがわかっちゃうんですもの。

 

 注)筆者は文庫本を持っている小説読破勢です

 

なお、こたびのことで知ったのですが、十角館はマンガも存在していました。わたくしそちらは未読であります。チャレンジングな表現作品としてドラマ同様気になります。

 


そして、このたびこの十角館が地上波(日本テレビ系列)で放送されたので見てみました。(どうやら再放送だったらしいです)

録画をミスったので第2回までしか確認できていないのですが←、今回はそこまでの印象について「実写化」「映像化」をテーマに思ったことを書いてみます。ドラマの続きはTVerを待ちます笑

 

 

※ミステリーものなので、直接的なネタバレはありません。が、当記事は謎解きへのアプローチに関する示唆表現を含みます。すべてご自身で推理したい、ヒントも今はいらない、といった場合はご覧にならない方がいいかもしれません。

 

 

なにぶん気になっていたため、私はどうやって犯人のトリックをバレないようにするのか? という視点で作品を見ていました。

原作を知っている人は多かれ少なかれ気になるポイントだったと思います。


まず、原作の設定を忠実に再現しているという点において好感が持てました。

変な改変なく、真っ向から挑んでるんだなという感じ。

 

舞台について言えば、肝になるメッセージが手紙で届いたり孤島で連絡手段がなくなったりと、スマホがあっては成立しがたい世界観の物語なので、現代物への置き換えはできなかったものと思われます。

ちなみに原作では1986年の出来事として書かれていました。パソコンはあるけどスマホは生まれていない時代です。

おかげで、今見るとちょっぴりレトロな空気感漂う映像が楽しめます。江南くんちのキッチンまわりとか、ミス研の女王様・アガサの巻き髪具合とか、ほかにも。

 

ーーー

2026.1.18追記

原作を読み直していたところ、ワープロが登場しておりました。つまり、一般的にはパソコンはまださほど普及しておらず、ワープロ主流の時代だったことが窺えます。

ワードプロセッサー。ご存知ないかたもいるかもしれませんが、文字をきれいに入力・出力できるツールとして一時代を築きました。MicrosoftのWordに近い機能を持つマシンですね。

ーーー

 

ただ、映像から「バレない」ようにするためかカメラワークで力みすぎてたかなあという気がします。


島では「あの被写体」を最小限しか映さないようにしていました。映ってもはっきりわからないようにしたり、シナリオ上必要なところは引きで撮ったりしていました。


本土では「その被写体」を強く印象づけるように映していました。性質を誇張するような絵面になっていたように思います。


すみません。答えを明示せずに考えを書こうとしたらこんなことになりました。本作をご存知のかたにはなんとなくお察しいただけるかと思います。

本作をこれからご覧になるかたへ補足すると、この物語は過去の四重殺人事件と現在の連続殺人事件という二つの謎を中心に、島と本土の二つの軸で進んていきます。小説においては、この島/本土の二軸が交互に並ぶ構成なのがちょっとした魅力なんですよ。

 


お話を戻します。

 


そのように、映像からは場面のどこをどう描き出すのかという表現からヒントが漏れ出ている気配を感じました。


しかしながら、注意すべき対象物を絞り込めたところで、トリックの全容を暴くことはできないのがこの作品の奥深いところ。

「“衝撃”の一行」と称されたあの真実に辿り着くためには、見ている側が作者の発想に追いつかなければなりません。

これ、だいぶ難儀なことだと思います。

はい、私とてただただびっくりすることしかできませんでした。元来推理もので推理し通せることなどない人なのです汗

 

といった安易ではない構造の作品なので、個人的にはもう少しフラット寄りに撮影して勝負してくれても良かったんじゃないかなあと思いました。見てみて、方法論を理解した上での感想です。

加減の難しいところでしょうし、制作サイドの心理としてはわかるんですけどね。

 


さて、ここからどんなふうに映像で魅せてくれるのでしょうか?

興味津々でお待ちしております。

 

 

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M-1グランプリ2025感想と考察featたくろう、ドンデコルテとエバースも少し

年末、たまたま「M1-グランプリ2025」(2025.12.21OA)を見ました。

結果、たくろうに軽く沼ってしまい、重ねて「M1-グランプリ2025アナザーストーリー」(2025.12.28OA)を追いかけたところどうにも堪えられなくなり、今回はM-1で1記事書くことにしました。

決勝ネタ2本を中心にたくろう関係で8〜9割を占めていますが、ドンデコルテエバースにも触れつつ大会を振り返ってみます。

 

 

※当記事は「M1-グランプリ2025」のネタバレを大いに含みます

 

※「M1-グランプリ2025アナザーストーリー」と「優勝後記者会見」で紹介された内容も含みます

 

 

 CONTENTS

 

 

たくろうのネタの面白さ


公式動画で「ジャイアントキリング」と称されたたくろう(ボケの赤木裕さん・ツッコミのきむらバンドさん)のお二人。本大会においてはダークホースだったかもしれませんが、決勝1stラウンド上位3組による最終決戦では9人いる審査員から8票を獲得し、圧勝の形で優勝をかっさらっていきました。


ファーストラウンドのネタはリングアナ。きむらさんが二人でリングアナをやってみたいと言い出し赤木さんを巻き込みます。

最終決戦のネタはビバリーヒルズ。きむらさんがいつかアメリカのビバリーヒルズに住みたいから練習したいと赤木さんを巻き込みます。


いずれもオーソドックスなボケとツッコミというより、きむらさんの無茶ぶりに赤木さんがうろたえながら応えていく形式でした。

赤木さんの返しは大喜利回答的なんですが、それに留まらない発展が隠れていて、意表を突く笑いを生んでいたと思います。審査員・フットボールアワー後藤さんの言葉を借りれば「ただの大喜利を結局やってないというか、赤木の人間性で笑ってる笑わされるっていうのがすごい」。


ここの赤木さんの凄さ。ネットでもその「演技力」を讃えるコメントを拝見しましたし、審査員・博多大吉さんも「漫才なんで、もちろん練習もされていると思いますけどそれを全く見せない。その場でやってる感じが出てるのは本当にすごい技術だなと思いました」と絶賛されていました。

彼の立ち居振る舞い、個人的には「演技」を超えた「説得力」を感じました。本当に困ってどうにか言葉を捻り出している、なんとかきむらさんに合わせようとしている、その状況を違和感なく体現している感じ。

 

おそらく間の取り方作り方が絶妙なのではないでしょうか。食い気味でもいけない、出遅れてもいけない。強すぎても弱すぎてもよくない。その発し方の当たり判定がことごとくスマッシュヒットしている印象。

きむらさんの蒔いた設定はへんてこりんなのに、だから二人の会話にリアリティーが湧く。いつの間にか我々観客サイドは、赤木さんの「苦し紛れ」をわくわくしながら待つ格好になっていたように思います。そして、追い込まれた赤木さんがこちらの期待値を超えてくる。次を欲する客。このループで、赤木無双とも言える怒涛のゾーンができあがっていたように感じます。

 

 

赤木さんの説得力の根源


引っ込み思案。アナザーストーリーにて、赤木さんのお父様が赤木さんを一言で評した言葉です。お父様だけでなくお母様からもそれを裏付けるエピソードが紹介されましたが、赤木さんは思っていることをあんまり口に出さない(出せない?)人だったようなんですね。

元より思想を発言に直結できる人にはわかりにくいかもしれませんが、世の中にはそういう性質の人間もいるのです。今はだいぶマシになったものの、私もどちらかというとそっち側でした。


まわりが何か話している。場合によってはこちらに何か言ってくる。反射よく気の利いたことなんて言えなくても、何か答えなくてはいけない。人生はそんなことの繰り返しです。場合によってはいちいちがちょっとした地獄です。


今回の無茶振りに晒されまくるネタ。その赤木さんの本質が遺憾なく発揮されているように感じました。いや、この表現には語弊があるかもしれません。元来、精神的窮地に置かれること自体が遺憾なはずですから笑


もちろんコンビとしてすべて計算しシナリオを組んでいるわけですが、あの掛け合いをやった時の「ハマり具合」はこれ、日常的に「追い込まれ」を経験していた人間のリアリティに勝るものはないと思います。

コミュニケーションにおいては弱点にしか見えないものを、お笑いのステージで強みに変えた。そう捉えることもできるのではないでしょうか。

 

 

リングアナネタの個人的ツボ部分を語りたい


要素の順番。三文字の初手・WHOを聞いたとき、私は実の所そのボケいるかなあって思ったんですね。あーこれ世界保健機関だなあってオチ的なものがわかっちゃったので。それなのに、赤木さんの「世界保健機関」の言い方だけでちょっと面白かったんですよ。語尾に「会長」が付いたのもジャブ的にじわりましたし。

言う内容の予測が立つと面白くなくなりそうなものなのに、そうはならなかった。これは前述した赤木さんの演技力≒お笑い力によるものと思われます。


加えて、ここからが真骨頂。


PCR、BBQ、とただの略称ではない形のボケネタが続くことで、最初のWHOが続きのボケの展開を予測させにくくする「てこ」として機能していたのだ、と後付けでわかるのです。そう、WHOはベタな3文字大喜利に留まらない仕掛けの伏線でもあったわけです。そのボケいるかなあは撤回せざるを得ません。きっと置かれるべくして置かれてるんです。


(ネタを作っている)赤木さん、天才では?


のちにアナザーストーリーで紹介されていましたが、赤木さんのネタ作りってノートに単語をいっぱい書いてそこから思いつく形で構築されるんですって。どんな単語があのネタの発想をこじ開けたんだろうと思うとわくわくします。

結成2年目でM-1準決勝進出した後、何年もそれを超える成果が出なかったというお二人。そうしてノートに「可能性」が書きつけられていく中で、今年「リングアナっていうむっちゃ可能性あるネタが出てきてちょっと息吹き返した」のだそう。

優勝後の記者会見にて、きむらバンドさんはその停滞期間を「優勝させていただいているからこそ言えますけど、要る7年だった」と率直に表現されていました。リングアナのゴング前の叫びは、そのままたくろう二人の心の叫びが投影されていたのかもしれません。


ネタは最後まで二人がかりのリングアナぶりが弾け続け、「高得点」を叩き出します。

審査員の皆様の配点は以下の通り(番組の表示を参考に敬称略)


博多大吉96

ミルクボーイ駒場97

ナイツ塙96

かまいたち山内92

フットボールアワー後藤95

笑い飯哲夫94

アンタッチャブル柴田97

海原ともこ97

中川家礼二97


こうして合計861点を獲得したたくろうは実力派のヤーレンズを敗退に追いやり、暫定BOX入り。勝ち残っての最終決戦行きを果たすのです。

特にKSDは予測不能すぎましたし、元言葉の醸し出すえも言われぬ雰囲気が突き上げアナウンスにノリすぎて笑わずにはいられませんでした。

 

 

ミルクボーイ駒場さんの評論と垣間見える芸人達の人生


ネタの後、司会の今田耕司さんが何人かの審査員さんに評価をたずねる流れがあります。リングアナについて、中でもなるほどなあと感銘を受けてしまったミルクボーイ駒場さんのコメントについてまとめてみました。およその主旨はこんな感じだと思います。


・赤木さんの挙動不審キャラに意味(きむらバンドさんの変な誘いに乗らされて挙動不審になる流れ)が伴い、言葉が面白いばかりでなく立場も仕上がった


・最初に準決勝に行った後七年とか苦労が続いたがネタ作りを続けてきたのが結実した


これらの視点。演者の個性も野放しにするだけではせっかくの質を損なってしまう。設定に根拠が通えば面白さが格上げされ、漫才世界の完成度が上がるのだ。彼らはそれを体現できるだけの苦労と努力を重ねてきたのだ。というふうに受け止めてみました。


駒場さん、二人の苦労にも寄り添いながら懸命にお話ししておられました。後になってからたくろうにも解散危機があったとわかり、私はこのときの駒場さんに時間差でグッときてしまいましたよ。


さて今大会、苦労というテーマが出たらドンデコルテの渡辺銀次さんに触れないわけにはいきません。


「渡辺銀次40歳独身。厚生労働省の定めた基準によると貧困層に属します。国も認める低所得、私はこんな自分と向き合うのが怖いんです」


これをステージで笑いにするのは相当な覚悟が必要かと存じます。それでもこの道を行くのだという、ヒリヒリするような生き様。

私は最初に見た時に思わずピース・又吉直樹先生の「火花」を思い出してしまいました。お笑い芸人の物語で芥川賞受賞作として名を馳せ、ドラマや映画にもなりましたね。

渡辺さんはコンビを何度か変えながらくすぶり続け、今の相方・小橋さんの希望でツッコミ→ボケに転向したといいます。


渡辺さん、アナザーストーリーにて一度だけ涙を流すのですが、自分の大変な苦労部分ではなくて後輩を食事に誘うこともできないという話で泣くんですよ。ゆにばーす・川瀬名人さんの名前を挙げて。


ドンデコルテは3位でM-1最終決戦に進み、最終的にかまいたち山内さんからの1票を得て2位着地となりました。山内さんは1本目でもたくろう(92点)より高い95点をつけており、オリジナリティーという言葉を用いてドンデコルテを高く評価していました。

そして大会後、渡辺さんは「年明けちょっとメシ行こう」って川瀬さんを誘うんです。泣く。

 

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ビバリーヒルズネタの個人的ツボ部分を語りたい


「それ吹き替え版のやつだから」ってごにょごにょ言いながら「あー言ってたかもね」ときむらバンドさんに押し負ける赤木さんの完璧な吹替セリフ運び。早くもここらへんから赤木無双の空気感が場を掌握した感がありました。

マイアミは出張先なので「マイアミにお留守番」は文脈から言い間違いと思われるのですが、手振り付きのいかにもな翻訳ワードぶりに客側が押し切られる格好になっちゃったのもすごい。


リングアナの方でも出ている表現なのですが、赤木さんって躊躇や狼狽、困惑なんかをおずおず押し出す感じでこちらの笑いを誘ってくるんですね。

それもYahoo!やよい軒みたいな決め所ばかりではなくて、ピーンポーン後の「あ、連絡は入れてくれたのか?」などに見られる揺さぶりと言うか小突きネタみたいな追撃には客側も隙を突かれてしまうなあと思います。

これ、手前で提示されていた赤木さんのナンシー側への遠慮がぶり返される構造になっており、短いスパンで思い出し笑いをも引きずり出す見事なピンポイントフレーズでした。

ホームパーティーに行った後のシーンは圧巻。セレブたちとの対比ギャップもあって、存在のありふれた平凡さがジョージを常時鮮やかに彩っておりました←

思えばロブスターのくだり、「何を言われた?」でちゃんと笑わすのも結構難易度高いと思うんですけど、赤木さんの空間把握能力?あの間合いはちょっと説明しがたい領域の職人芸だったのではないでしょうか。

 

 

つかみの自己紹介とたくろう二人の関係性


彼らの漫才では最初に自己紹介が用意されていました。いわゆるつかみというやつですかね。

書き起こしてみるとこんな感じです。


「メガネのパーマ、きむらバンドと」

「裸眼のバケモノ、赤木です」


「元バンドマンのきむらバンドと」

「元サイコパスの赤木です」


きむらさんの平易で簡潔な自己紹介に、赤木さんがなんとか系統を揃えて付いていくような形になっています。

つまり、入りの挨拶から漫才本編の二人の有り様が表現されているんですよ。きむらさんの振りに合わせようとして変な感じになる赤木さん、という構図です。


文字だと伝わりにくいのですが、実際にお二人が喋っているのを見ればもっと面白いですよ。蛇足かもしれませんが念の為。

本来赤木さんのほうの一言はきむらさん縛りとかはなかったりもう少し自由っぽいんですがね、M-1決勝においては体裁が整っていたもよう。

 


(小声)公式様、つかみ集の動画拝見しました。爆笑必死はある意味間違ってないですが、爆笑必至……あ、敢えてですかね……

 


ここへきて、きむらバンドさんに注目してみます。


今回の漫才中における彼の役割は、赤木さんへ妙な振りをブレずに仕掛け続けることでした。でもこれって、日常に置き換えて考えるとまあまあ迷惑行為と言いますか……行き過ぎて客から見た受け手側の心象がネガティブに寄りすぎてはお笑いにならないかもという、バランスの求められる様式ではないでしょうか。


まあ、漫才というのは妙なフリのような一風変わった土台から組み上がったりするものでもありますがね。

たとえば今回で言うと、エバースの1本目なんかはルンバとうまい棒が織りなす無茶な前提条件のネタでしたが、佐々木さんのボケに町田さんがきっちり突っ込んで成立させていらっしゃいました。

喋りはあたかもストレートパンチを打ち合うようなやり合いで、どちらも相手に対して負けていない・パワーバランスの偏りがほとんどないように思えました。さすがです。

 

ーーーーー

2026.2.14追記

その後エバースさんについて、賞金は19対1とか合コンがどうとか、そういう話が耳に入ってきてしまいました。その上で漫才を見てみると、たしかに舞台上の二人は対等に渡り合っているのですが、そういえば町田さんはだいたい不遇の目に遭っているなあというネタの基本構造に気づいてしまい、妙なところでコンビの物語性が深まってしまったような気がしております……。

ーーーーー


ではたくろうはというと。


今回のネタではきむらさんが赤木さんを追い込む形なので、一見きむらさんの方が上の立場に見えるかもしれません。

が、困惑満載の赤木さんの返しには「どうにかして付いて行くよ」というきむらさんを立てようとする気配があり、ちょっと強引だけどこいつといるの嫌いじゃないんだよな感が漂って見える気がするのです。きむらさんの無茶ぶりには「もちろん付き合ってくれるよね?」という仲良しすぎる友達への絶対的な信頼みたいな空気があって、赤木さんはちゃんとそれを受け止めて返しているというか。なんなら吸収しちゃっているというか。

漫才の中の演目上の話ですよ。


だから心象ネガティブにはならないんですよね。なんだかんだじゃれあってるダチ同士的な健全な関係性に見えてくる。実際、お二人とも仲良しっぽい印象ですし。

 

こういうコンビ間のネタ中における関係性ってお笑いにおける個性の土台かもしれません。

 

ネタ後の審査結果が一つずつ開く所、きむらさんが赤木さんの肩から腕のあたりを「やったな!すごいな!」的に揺さぶっていたのとか、距離感の近さが出ていたように思います。優勝が決まったときは一瞬抱きついてたし。

 

そういえばいつものあの衣装、赤木さんのシャツはきむらさんが誕生日に買ってあげたもの(塚本の商店街で77%OFFで買ったやつ)で、もう十年ぐらい使っているらしいです。

アナザーストーリーからの抜粋ですが、正に読んで字の如く。お笑いスタンスでも感動スタンスでも受け取れてしまう、コンビにとって強めのエピソードストーリーでした。

 

 

優勝フラグを揺るがす要素?2本目をめぐる裏話


ビバヒルネタで爆笑を巻き起こし優勝した後にあって、記者会見で明かされていた2本目のネタ選びの話が興味深かったのでご紹介。

 

今回のM-1はリングアナのネタでほぼきたというお二人。2本目をどうするか考えたとき、赤木さんの同期の翠星チークダンス・木佐さんから「過去にやった強いちゃんと実績のあるネタをしたほうがいい」と言われ、2024年の準々決勝でやった競馬のネタにしようかと思ったこともあったそうです。

でも絶対11月にやったビバリーヒルズのほうがいいよという話になったそうで、「相方を信じて良かったです」とお二人が口を揃えておっしゃってたのがなんというか尊かったです。

 

 


「もとより優勝候補」「隙もない」「おもろすぎる」「かっこよさもある」

今大会最高の870点を出したエバースについて、アナザーストーリーでそんなふうに明かしていたたくろうのお二人。

赤木さん曰く「あんなすごいもの見せられたらって感覚あったんで、僕らやれることやりましょって切り替えられた」とのことでした。

エバースはエバースで、2024年大会では1点差で最終決戦を逃すという苦渋を味わっており、今年に賭ける想いもひとしおだったはずです。

 

そして、決着。

 

コンビ紹介のVTRで軟弱の星と称されたたくろうの逆転劇は実に鮮烈でした。

優勝が決まって銀ピカの紙吹雪がパーン!って舞った時、驚いて「うわぁっ」って感じでおののいてたのも彼ららしさだったのかもしれません。

 

 

 

その後、紅白歌合戦だの何だのすごい勢いで露出が増えたたくろう。ちらっとバラエティの大喜利の様子を拝見したところこちらも面白かったので、これからの活躍にも期待します。

個人的には、赤木さんが1周だけバイキング!!に出たら冷奴や蕎麦をとるのか気になるので、関係各位様ご検討のほどお願いします笑

 

 

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台所換気扇掃除の話〜業者の金言VSそうじズボラ民〜

清掃業者さんにキッチンの換気扇をお掃除していただいたことがあります。何年か前のことです。

掃除はおおむね適当、換気扇まわりもそれとなくおざなりにしていましたから、どんなにか汚れているんだろう、という怖いもの見たさもありプロに発注してみたのです。

 

うちの台所換気扇は、全面に小さな穴が均等に並んでいる(穴あけパンチの穴くらいのサイズ感です)ぺたんこな金属板が2枚はまっていて、その奥に換気扇本体が隠れているような仕様です。

 

パンチング金属板は、ほこりで目詰まりしていた穴という穴が通気口として復活し、つるつるとした表面を取り戻しました。ほとんど換気が滞っていたようです。何事も放置が過ぎるとはっきり弊害になりますね。

 

中の換気扇本体は油でギトギトしてるんだろうかとそわそわしていましたが、思ったよりベタついたりしておらず、むしろパキパキと乾いた質感で思ってたのと違いました。

業者さんが言うには、いかに料理をしてきたかが換気扇の汚れに出るとのこと。要するに私は、たいして料理なんかしてなかったでしょ? と見抜かれたわけで、なんなら換気扇が派手に汚れているより恥ずかしい感じだったかもしれません。

 

なお、今は当時より台所に立つ機会が増えておりますよ。当社比ですが笑

 

で、換気扇を取り外して見せてくれたときだったか、掃除し終えて換気状態を確かめているときだったか、そのあたりのタイミングで業者さん(男性、30代くらい?)はこんなふうに話してくれました。

 

「僕は掃除があんまり好きじゃないんですよ。だから家ではまめに掃除してるんです」

 

え? ん?

 

主旨としてこんな感じだったという記憶から書いているのですが、一瞬混乱を招く発言であります。なんだか矛盾してませんかねそれ。

 

 

その心を尋ねてみたところ、汚れは時間が経つと落ちにくくなるから、そうなる前にきれいにしてしまうのが一番楽なのだ、ということでした。ごもっとも。それを生業としている人が言うと説得力が違います。

 

これを読み解くと、彼が「好きじゃない」のはガンコ汚れを伴う掃除であって、軽い掃除を数こなすことでその災厄を防いでいる、ということになります。

 

ちゃんとした人でいらっしゃる。そういうことができる人だから清掃業者が務まるのでしょう。そして、いろんな依頼者を見ていろんな感想を持つのでしょう。

あわよくば手抜き掃除の裏技など聞き出せないものか、などと思っていた私は少々居心地が悪くなりましたよ……

 

 

そして何度か冬を越えて今。大掃除シーズンですね。

 

 

私は、流しのシンクに重曹入りのお湯をはって金属板部分を漬け置きする、というやり方でセルフケアを行うようになりました。しばらく置いてからお湯を抜き、使い古しのスポンジ等で洗います。まあせいぜい年に一度程度ですけどね。

何度かやってみて思ったのは、排水口を塞ぐのがちょっと大変ということ。方法としては水のうシリコーンラップを試してみたのですが。

 

水のうの場合はポリ袋(スーパーにあるような透明のやつ)に水を入れてこしらえ、排水口部分を塞ぎます。このやり方は何か動画系で見かけたような記憶があります。でもうまくせき止められなかったのか、シンクの水位が下がったりしたんですよ。(私のやり方がよくなかったかな??)

 

シリコーンラップ(レンチンの時に使えるラップの代わりになるシリコーン製カバー)の方は排水部に被せて塞ぐという方法論。このアイディアはテレビで見かけたような気がします。シンク用に一つ100均で調達してきたのですが、サイズがギリギリすぎたのか、水圧に負けて隙間から漏れてしまいました。

 

 

今年のケアは水のう法で先日済ませまして、おかげさまで現状換気扇入口はさっぱりしております。でも水位問題が今一つ解決できていないので、次は重曹湯をシンクに直張りではなく大きなポリ袋に入れる方法を試してみようかな、と考え中です。こちらの方法はネットで見かけたのですが、たしかにこれなら袋の縛り方さえ気を付ければ水漏れを防げそう。

 

 

「まめに掃除すればいいんじゃないんですか?」

 

 

嗚呼、どこかから掃除業者さんの声が聞こえるような気がする。

声質自体はうろ覚えなのに、今後換気扇じゃないお掃除場面でも幻聴が出そうな気もする。

ぐぬぬ

 

 

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ポルノグラフィティ「サウダージ」歌詞&楽曲考察

 ライブドアニュースさんのXアカウントで「JOYSOUNDの2025年カラオケ年間ランキング、『サウダージ』が10代の1位に」というトピックを拝見しました。ポルノグラフィティさんのヒット曲として存じ上げておりますが、そうですか10代の。一体何が十代さんの心を捉えたのだろう?

 ポルノさんといえば『アゲハ蝶』が最近になってドラマ主題歌に抜擢されたのが記憶に新しいのだけれど、それで10代さんの知名度が上がったのだろうか?

 といった興味が高じて、今回は歌詞と音からの世界観を追いかけてみてのサウダージ考察、いってみます。

 

 

 もくじ

 

 

 

1.導入部の歌詞に滲む「サウダージ」の根幹

 

 ”私は私とはぐれる訳にはいかないから”

 

 のっけから文学心をくすぐるフレーズが出てきます。これは、実際の自分自身が心の上で分離している状態を端的に示しているものと思われます。 

 失恋を認めて終わらせなければならないと受け止める私。

 だがしかし、失恋を前にして未練に身もだえている私。

 こんな感じでしょうか。

 正に”よくある話”ですが、心情を擬人化して別人として描いていますね。

 

 主語の私と目的語の私、どちらがどちらの私を指しているのはわかりません。

 テキスト上で書き分けもされていない(たとえばわたしとかワタシとか)ので、それだけ心情の中に差のない比重で同居しており、どちらが主体なのかがわからなくなっているのではないでしょうか。

 ここでわかっているのは、”はぐれる訳にはいかない”=このままではいけないということだけ、ですかね。

 

 

 ”いつかまた逢いましょう その日までサヨナラ恋心よ”

 

 恋心というものを抱いている限り心の分断は避けられない。だからそれを手放します。今は、一旦。

 というような、ここまでの一文。もうすでに国語でいうところの主旨が提示されている気がする強い導入部なんですが。

 

 ”いつかまた逢いましょう”の解釈がちょっぴり曲者。

 

 「今回の恋を終わらせたら新しい恋をします」のようでいて、作中ほとんどそういう心境に至っていないんですね。

 ざっくり言うと、AメロBメロは「想い人への気持ち」、サビは「未練を断ち切ろうとする気持ち」になっているんだけど、前者は想いの乱射みたいに言葉が詰まっていて、後者は比してゆったりした密度の言葉で要点だけ語られる。

 もう勢いから後ろ髪を引かれまくっているのがわかる。

 ”そこに確かに残るサウダージ”が主人公の未練の深さそのものって気がします。

 

 

 

 ここで曲のタイトルについてGoogleのAIさんから教わった概要を付記。

 

「サウダージ(Saudade)」はポルトガル語(およびガリシア語)の言葉で、日本語では「郷愁」「憧憬」「切なさ」などと訳されますが、単語では表現しきれない「失われたものや遠く離れた人・場所への深く懐かしい想い、寂しさ、愛しさ」といったポルトガル人特有の複雑で深い感情を表す言葉です。

 

 このようにかなり深い思い入れを感じる意味合いで語られていました。

 

 主人公、言葉を選ばずに言えば「重い」のかも。サビの説得がそれ以外の過去に押し負けてる。想いが思いがけず重い。

 言葉と音の対比から考えると「複雑で深い感情」という言葉には収まらない暴れっぷりの心を飼っているのではないでしょうか。

 

 

2.二方向に引き合う概念と音表現

 

 受け入れるべき。だが相容れない。

 前項でここに挟まれた主人公(二つの私)の想いに触れましたが、引っぱり合う組み合わせの要素はほかにもあります。ある種の対比。たとえば、

 

”嘘をつくぐらいなら何も話してくれなくていい”

 話をしてくれるのはうれしいが本心でないなら聞きたくない

 

”せめて最後は笑顔で飾らせて”

 最初は「こう」ではなかったはず

 また、本当は笑顔を向けられるような心持ではない

 

”時を重ねるごとにひとつずつあなたを知っていって

 さらに時を重ねてひとつずつわからなくなって”

 知れば知っただけわからないことが増えていく

 

”想いを紡いだ言葉まで影を背負わすのならば

 海の底で物言わぬ貝になりたい”

 気持ちを伝えるほどうまくいかないなら何も話したくない

 

”寂しい…大丈夫…寂しい”

 だいじょうぶ、と思い直したいのにさびしさから逃れられない

 

 歌詞から持ってきてみました。それぞれ少しずつ違うことを言っていますが、どれもこれも真逆からうまくいっていないという部分が共通しています。

 

 Cメロのところではこれが端的に言い表されていますね。

 ”繰り返されるよくある話 出逢いと別れ 泣くも笑うも好きも嫌いも”と。

 主人公、ちゃんと自分の失恋がありふれたものであると俯瞰できているのです。

 そのあとに続くボーカル・岡野昭仁さんの「Ahー」は、それなのに固執してしまっている主人公自身の嘆きを投影しているのかもしれません。

 はたまたCメロというポジションだけ第三者視点だったりするのでしょうか。陳腐さへの「やれやれ」の提示? ここは主人公嘆き説を推したいところだけれど、どちらとも断言はできません。

 

 

 ここで、曲の導入部と最初のAメロの間の間奏に注目してみます。

 

 ミファ#ソラシドレソファ# ファ#ソファ#ミレシラソファ#

 

 主旋律のストリングスが、およそこんなメロディーを2回繰り返して繋いでいます。(耳コピなのであくまでご参考まで)

 前半は駆け上がるような音階、後半は滑り落ちてくるような音階で、二つが続くことでメロディーラインが行ったり来たりしているような形になっています。

 

 これ、二概念に苦しむ主人公の気持ちを曲側からも表しているかのような演出に思えました。

 うまくいかなかった二人の物語の中で、表現上の言葉と音は寄り添っている皮肉、余計に切なさを煽られます。それぞれ最後の一音は長く伸びて震え、むせび泣いているかのようですし。

 また、よく聴くとここの部分、旋律は途切れずに一息で奏でられています。この場合、音色の緊張感も相まって主人公の不安定かつ切実な心情がより明確に描かれているように感じます。

 

 この間奏メロディーは1番と2番の間でも出てきます。こちらは1往復だけですが。

 そしてその後は出てこなくなります。

 これの意味するところは何なのでしょうか?

 あとでもう少し詰めますね。

 

 

 ほかメロディ的なところで興味深いのが、レ音ミ音の応酬。

 Aメロの大半、およびCメロの大半において、ボーカルの所にかなりこの2音が多めに出てきます。

 Aメロではが多めで先行しがついてくる感じなんですが、Cメロだとが先行してほぼ均等・交互に鳴ります。

 ここで、映画「サウンドオブミュージック」で歌われた「ドレミの歌」を思い出してみると、ちょっと面白い。ray(太陽の光)に、me(私)に、それぞれ置き換えて考えると、

”夜空を焦がして”いた主人公は日の光に揺さぶられている?(終わりかけの恋を心身に焼き付けようとしている主人公は、日が照るように明白な失恋という事実≒強迫観念に晒されている?)という暗示だったりして、

などと考えることもできます。……これはやや強引な解釈かな笑

 

 

3.主人公の心情の行方

 

 Cメロ後のいわゆる大サビは、一度同じ尺で歌われた後、最後に転調してもう一度繰り返されます。最後のサビの歌詞を辿ると

 

”あなたのそばでは永遠を確かに感じたから

 夜空を焦がして私は生きたわ恋心と”

 

 ”私は生きたわ恋心と”と言っているので、この恋を過去のものにできた感が出ています。転調を次のフェーズに移行したことの音楽的表現と捉えると、実にしっくりくる。

 

 でも、と私は思うのです。

 

 今まで手こずってきた自分内の感情の引っ張り合い、はたして本当に終止符が打てたのでしょうか。

 ”甘い夢は波にさらわれたの”とあるように、心情もまた波のように寄せては返し、となるのではないでしょうか。

 

 ミファ#ソラシドレソファ# ファ#ソファ#ミレシラソファ#

 

 思えばこれもまた、波の動線に重なるような表現のフレーズでした。

 出てこなくなってから、メイン間奏部や後奏部では代わりにリードギターが「泣き」を響かせるようになるのですが。

 

 これ。「二概念の葛藤が払拭され主人公は腹を括りました」と受け止めるのが順当かもしれません。

 が、個人的には、クラシック楽器がメロディーラインで保っていた体裁が、後半ギターによって歪められ、主人公の心の状態にカオスみが増したようにも思えました。

 ないまぜ。

 二概念間の揺らぎはなくなりましたが輪郭も失いました、みたいな。

 

 そして、確信が伴っているかのような”私は生きたわ”の言葉もまた然り。

 素直に受け止めれば「納得、理解、決心」等に見えそうなところを、後者の解釈だと逆に「本当に生き切ったのか?」という揺らぎが生まれそうなエンディングになる。曲も音が徐々に消えていくフェードアウトで、かっちり終わらないところが着地の曖昧さを感じますし。

 

 言わばこの曲の歌詞は主人公の「自分に言い聞かせるための言葉」

 受け止め方によって程度に幅は出るがいずれにしろサウダージは終わらない

 ずっと主人公の残りの人生に在り続ける。

 

 こういうことなんじゃないでしょうか。

 

 ”許してね恋心よ”って、ある意味恋心さんに対して「あなたを大切にできずすみません」じゃなくて、「あなたに縋ってすみません」なのかもしれないです。

 ”私は私とはぐれる訳にはいかないから”

 「複雑で深い感情」とやらは一筋縄ではいきませんね。

 

 

 

 といった具合になりました。

 書いてる側まで二つの解釈概念に挟まれることになりましたが、いかがでしたか?

 10代さんがこういうことを考えているのかはわかりませんでしたけどね笑

 カラオケ人気とあったので、「わーたーしーはー」等に見られる四分音符と歌詞の妙、AメロBメロの追いかけがいのある小刻み感、あたりかな? と推察します。

 今度子供さんがいるお友達に聞いてみようかな。

 

 

 

 

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いつでも見られるという安心/慢心が録画データを溜めていくのだ

私は何か気になる番組があるととりあえず録画しておきます。今度ゆっくり見よう。そのときはそう思っているのです。

ところがそういう録画、特に映画のような長尺のものほど、ちゃんと観たいから今日はやめとこう、と先送りしがちなのです。

 

今週のお題ストックしているもの

率先して溜めているわけではないのですが、私の場合はテレビの録画データ。これかと。

 

 

私は表現されているものが好きです。

映画でもドラマでも小説でもマンガでも音楽でも、他にも様々あるかと思いますが、そこには作り手が形にした何らかの想いが託されているはずなのです。

 

私はなるべく作品を楽しみつつ、その制作背景へも想いを馳せたいと思っています。

だからその結果として、自分はこんなふうに思ったよ考えたよという感想や考察を持つことがあり、時々それはここのブログで書き記されたりしています。

 

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そんなスタンスなのもあってか、いざ新規の長物録画データを味わおうと思うと流し見などできない気持ちが前に出てしまうのです。

そして、もう見たことのある録画を「これでいいや」とゆるく流し、その日を終えたりするのです。

 

たいへん勿体ないことです。

手元に残したのだから、順当に消化されるべきなのに。

 

 

 

一方で。

 

 

 

私は最近TVerのアプリを嗜むようになりました。

リリース10周年のタイミングなので実に遅い参戦です。

ティーバーは各配信ごとに再生できる期限が設けられています。

時期を過ぎれば見られなくなってしまう仕組みです。

だから私は、TVerでは気になる配信をなるべく頑張って再生します。

特に「配信終了まで1週間以上」ではなく、「いついつの何時に配信終了」となっているものへほど積極性が増します。

期限が来る前に見ておこうという意思が働くためです。

 

はい。このあたり、締め切りがないと動けないという自身の人間性が露骨に出ております。

 

置いておけば録画は逃げません。

しかし、その環境にあぐらをかいていては、せっかくの録画も宝の持ち腐れ。

一時間半とか二時間とか、意識して時間をとって珠玉かもしれない映像を堪能すればいいのに、どうしてなかなかそれができないのか。

見ない録画を持っているだけなのは録画していないのと同じではなかろうか?

 

それはある種ぜいたくな怠慢だなと思います。

自身が行動しなければ「そのうち」は永遠に来ないのです。

 

 

というわけで、今後は積極的に手持ちの「NEW」マーク録画を鑑賞していこうと思います。

ここで宣言することで成功率を上げる作戦ですよ。

はてさて、私は目論見通り未視聴ストックを減らすことができるのでしょうか?